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伯父さんの花瓶

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そういえば、
この花瓶は伯父さんがつくったもの。

シベリアに9年も抑留された時代に
器用なロシア人の工芸品を見て、
そのスキルをまねて、
日本に帰還してからは、
もっぱら趣味に活かした。

私が福井にお嫁に行くので、
好きなのを持って行きなさいと言われ、
選んで戴いてきたのが この花瓶。

なんか温かい感じのこの花瓶。
いつも伯父さんを思いだせる
距離に置いてある。

# by yamamo43 | 2016-05-02 16:17

「凍原の思い出~私のシベリア体験記」目次

 ★伯父のシベリア抑留体験記★(ひかママ)


「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛

 ・はじめに


 ・第一章 シベリアまで


       ・おじいちゃんはなぜ連れていかれたのか


       ・シベリアまで


                 


 


 ・第二章 ラーゲル生活あれこれ


       ・ロスケ水兵の特技


       ・ハバロフスクへ向かう途中のこと


       ・虱、南京虫との戦い


       ・ラーゲルでの「バーニャ」<入浴>


       ・冬の砂採り


       ・厠での出会い


       ・朝鮮人学生と毒草


       ・ゴロビッチャ<フレップ>狩り


       ・生か死か、大尉の思い出


       ・パンと煙草


       ・モク拾い


       ・イモの皮むきアルバイト


       ・紙幣の切り替えとパンのこと


       ・ビタミンCの補給


       ・トンネル工事と馬


       ・発破と木霊


       ・入院とユダヤ人       


              ・伐採での掛け声


       ・恨みのナイフ


       ・朝鮮人脱走事件


       ・ラーゲルの塀修理


       ・燕麦と馬


       ・夏の夜と父の死


       ・壁土造りと面会


       ・トランプ作り


       ・開通記念日


       ・エタップ<移動>


       ・シベリヤ鉄道


       ・ドイツ兵との出会い


       ・火事と老人


       ・パキスタン人と陶芸


       ・もう囚人ではない


 


 ・第三章 地方人としての暮らし


 


       ・釈放された夜


       ・私は「何処へ」行くのか


       ・釈放されてからの旅


       ・日本人との出会い


       ・うしろめたい気持ち


       ・仕事を探して


       ・五度めの大晦日


       ・苦手な坑木の積み込み


       ・映画鑑賞と交通事故


       ・野生のゴボウ採り


       ・初めての銭湯


       ・失敗した薩摩守忠度


       ・『リンゴの歌』が電波に乗って


       ・首かせの山羊


       ・カンスク市への集団移動


       ・大きな「マダム」


       ・土採り作業とカルメック人


       ・今夜はソ連兵


       ・秋晴れの一日


       ・月夜の晩の薪泥棒


       ・ウォッカと女性ナチャニック


       ・夕日のバーニャ


       ・吉報を次げた上級中尉


 


 ・あとがき


# by yamamo43 | 2011-08-30 14:54 | 体験記

凍原の思い出~あとがき

 一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。
 我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。
 このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。
 そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。
 一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。

 早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。
 私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。
 これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿である高橋夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。
 ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。
 残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。


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# by yamamo43 | 2010-12-08 21:57 | あとがき

第三章「地方人としての暮らし」~吉報を告げた上級中尉

第三章「地方人としての暮らし」~吉報を告げた上級中尉  _b0069672_12334362.jpg
 一九五三年(昭和二十八年)八月、私はその頃しきりに日本のお盆を追憶していたのである。八月初旬のある夕方、「スタルシレチナント」<上級中尉>が我々の住んでいる旧クラスナヤラーゲルのバラックを尋ねて来た。日本人と面接をしたいとの連絡があって、輪t氏たちは旧衛門前の看守の詰所に集合するようにと言われた。 
 当時ここには私とT氏、K氏、H氏の四人が住んでいた。私はその時ラーゲル監理局の職員か、警察官かと思った。我々は一人づつ面会することになった。そのとき氏名、生年月日、犯罪条項、刑期、国籍などを聞かれたのである。その時上級中尉は我々に夢のような話をしたのであった。それは、来年三月に「ダモイ」<帰国>出来るので、首実験に来たのだというのである。彼の上級中尉は我々五十歳くらいで温和な目付きの軍人だった。私はその時、とっさに“これは嘘ではない”という予感がした。彼は「今年はウラジオ近辺から帰すが、君達は来年三月である」と言って帰って行った。我々仲間は手を取り合って喜んだ。
 それから間もなく、ロスケ達が新聞『プラウダ』<真実>に“日本人ダモイの要請をモスクワでスターリンと日本人の政治家が話し合っている”と我々に教えてくれた。その頃はもうすべてのロシア人達は知っていたのである。それから我々は一緒にカンスクに出てきた。元の仲間は無論、道で出会う見知らぬ日本人ともしきりに話し合うようになって、ダモイを心から喜びつつ、その日の来るのを待っていた。
 ある日の事、事務所でナチャニックのイワンに出会った時、彼は「ミシヤ、お前達日本へ帰れば、またチョルマ<刑務所>に入れられるのだろう」と両手の指を二本づつ井の字に重ね右目で私の顔をのぞいて見せたのである。私は首を左右に振りながら、大きく口を開け“「ナチャーニック」<所長>「ヤポン、ノーノー」<日本は違う>”と言い返したのであった。他の二人も一緒に強く否定した。そのとき私は、やはりソ連人はそんな風に考えるのだろうか?といささか悲哀を感じたものだった。またその反面インガシヤのナチャニックと別れる時も真面目に働いてノルマを上げてくれる我々日本人を帰国させるのが辛かったのか、また残念であったのかも知れない、といろいろお互いに複雑な思いをしたのであった。
 そして今思うと、ある日本の作家が<共産主義は嫌いだがロシア人は好きだ>と言ったとか・・・・・。そんなことが思い出されるのである。
# by yamamo43 | 2010-12-03 12:34 | 第三章「地方人としての暮らし」

第三章「地方人としての暮らし」~夕日のバーニヤ

 一九五三年(昭和二十八年)七月、この季節のシベリヤは猛暑ではあるが、また真夏のもっとも楽しい時期でもあった。
 その頃私達の現場では、街のやや中央の住宅街に建設されていたマンションの基礎工事をしていたのである。その仕事は幅一メートル深さ二メートルの穴掘り作業で、それが出来次第に次は石切山から運び込まれた岩石を一輪車に積み込みいたの上を運搬して掘り下げた溝に投げ入れるのである。あとはロスケがミキサー車からセメントを運んで固めるのであった。この仕事は真夏のせいか掘った穴の中には五十センチほど水が溜まり、上から意思を投げ入れるため泥水が飛び散って、ズボンは無論顔と裸の上半身は泥まみれになった。それでも気温がたかいので仕事が終わる頃にはズボンがガバガバに乾いたが、裸の部分と顔は痛いほど突っ張った。
 私たちはウォッカ工場のそばを通って帰るのだが、門から一〇〇メートル位塀に沿って来ると、工場廃液の温水をエニセイ川の支流に流しているのである。その場所は年中、女性の洗濯場となっていて、そばでは子供達が大勢水遊びをしていた。
 この温水は工場の二階から木製の桶で、二、三〇メートルほどの距離を二十五度くらいの傾斜で音を立ててながれていたのである。この桶の中に我々が足を踏ん張って縦になって寝ると、ちょうど肩幅と同じ位の幅があって、さながら温水の滝にでも打たれているような感じである。こんな気持ちのいい風呂に入ったのは七年振りのことで、しばし満足感にひたった。三人は夕日を浴びながら大声をあげてはしゃいだのである。さすがロスケ達は“きまりが悪いのか”誰も入らないので、これは我々三人の専用バーニヤであった。五〇メートルほど離れた下手で洗濯をしていたマダム達は、さぞかし「あのヤポンスキー・・・・・」と言って呆れていた事でだろう。そう思うとおかしくもあり、またずいぶん思い切った事をしたものだとも考えるのである。


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# by yamamo43 | 2010-11-29 21:33 | 第三章「地方人としての暮らし」