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★伯父のシベリア抑留体験記★(ひかママ) 「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛 ・はじめに ・第一章 シベリアまで ・シベリアまで
・第二章 ラーゲル生活あれこれ ・モク拾い ・燕麦と馬
・第三章 地方人としての暮らし
・『リンゴの歌』が電波に乗って ・首かせの山羊 ・カンスク市への集団移動 ・大きな「マダム」 ・土採り作業とカルメック人 ・今夜はソ連兵 ・秋晴れの一日 ・月夜の晩の薪泥棒 ・ウォッカと女性ナチャニック ・夕日のバーニャ ・吉報を次げた上級中尉
・あとがき # by yamamo43 | 2011-08-30 14:54 | 体験記
一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。
我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。 このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。 そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。 一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。 早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。 私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。 これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿である高橋夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。 ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。 残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。 ![]() # by yamamo43 | 2010-12-08 21:57 | あとがき
![]() 当時ここには私とT氏、K氏、H氏の四人が住んでいた。私はその時ラーゲル監理局の職員か、警察官かと思った。我々は一人づつ面会することになった。そのとき氏名、生年月日、犯罪条項、刑期、国籍などを聞かれたのである。その時上級中尉は我々に夢のような話をしたのであった。それは、来年三月に「ダモイ」<帰国>出来るので、首実験に来たのだというのである。彼の上級中尉は我々五十歳くらいで温和な目付きの軍人だった。私はその時、とっさに“これは嘘ではない”という予感がした。彼は「今年はウラジオ近辺から帰すが、君達は来年三月である」と言って帰って行った。我々仲間は手を取り合って喜んだ。 それから間もなく、ロスケ達が新聞『プラウダ』<真実>に“日本人ダモイの要請をモスクワでスターリンと日本人の政治家が話し合っている”と我々に教えてくれた。その頃はもうすべてのロシア人達は知っていたのである。それから我々は一緒にカンスクに出てきた。元の仲間は無論、道で出会う見知らぬ日本人ともしきりに話し合うようになって、ダモイを心から喜びつつ、その日の来るのを待っていた。 ある日の事、事務所でナチャニックのイワンに出会った時、彼は「ミシヤ、お前達日本へ帰れば、またチョルマ<刑務所>に入れられるのだろう」と両手の指を二本づつ井の字に重ね右目で私の顔をのぞいて見せたのである。私は首を左右に振りながら、大きく口を開け“「ナチャーニック」<所長>「ヤポン、ノーノー」<日本は違う>”と言い返したのであった。他の二人も一緒に強く否定した。そのとき私は、やはりソ連人はそんな風に考えるのだろうか?といささか悲哀を感じたものだった。またその反面インガシヤのナチャニックと別れる時も真面目に働いてノルマを上げてくれる我々日本人を帰国させるのが辛かったのか、また残念であったのかも知れない、といろいろお互いに複雑な思いをしたのであった。 そして今思うと、ある日本の作家が<共産主義は嫌いだがロシア人は好きだ>と言ったとか・・・・・。そんなことが思い出されるのである。 # by yamamo43 | 2010-12-03 12:34 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五三年(昭和二十八年)七月、この季節のシベリヤは猛暑ではあるが、また真夏のもっとも楽しい時期でもあった。
その頃私達の現場では、街のやや中央の住宅街に建設されていたマンションの基礎工事をしていたのである。その仕事は幅一メートル深さ二メートルの穴掘り作業で、それが出来次第に次は石切山から運び込まれた岩石を一輪車に積み込みいたの上を運搬して掘り下げた溝に投げ入れるのである。あとはロスケがミキサー車からセメントを運んで固めるのであった。この仕事は真夏のせいか掘った穴の中には五十センチほど水が溜まり、上から意思を投げ入れるため泥水が飛び散って、ズボンは無論顔と裸の上半身は泥まみれになった。それでも気温がたかいので仕事が終わる頃にはズボンがガバガバに乾いたが、裸の部分と顔は痛いほど突っ張った。 私たちはウォッカ工場のそばを通って帰るのだが、門から一〇〇メートル位塀に沿って来ると、工場廃液の温水をエニセイ川の支流に流しているのである。その場所は年中、女性の洗濯場となっていて、そばでは子供達が大勢水遊びをしていた。 この温水は工場の二階から木製の桶で、二、三〇メートルほどの距離を二十五度くらいの傾斜で音を立ててながれていたのである。この桶の中に我々が足を踏ん張って縦になって寝ると、ちょうど肩幅と同じ位の幅があって、さながら温水の滝にでも打たれているような感じである。こんな気持ちのいい風呂に入ったのは七年振りのことで、しばし満足感にひたった。三人は夕日を浴びながら大声をあげてはしゃいだのである。さすがロスケ達は“きまりが悪いのか”誰も入らないので、これは我々三人の専用バーニヤであった。五〇メートルほど離れた下手で洗濯をしていたマダム達は、さぞかし「あのヤポンスキー・・・・・」と言って呆れていた事でだろう。そう思うとおかしくもあり、またずいぶん思い切った事をしたものだとも考えるのである。 ![]() # by yamamo43 | 2010-11-29 21:33 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年(昭和二十七年)十二月の初め頃であった。我々三人はウォッカ工場に三日間、地下の古くなったケーブルの撤去工事のため派遣された。最終日は特に寒さの厳しい朝で、空には雲が一面銀色に垂れこめていた。ロシア人は厳寒を「マローズ」と呼んだ。その朝の気温は氷点下四十度はあったと思う。煙突から吐き出される煙は、空に立ち上る事も出来ず、横に静かに流れている状態であった。工場の高い櫓や、三階四階の建物は、モクモクと立ち込める蒸気に包まれ、暖房のないと思われる倉庫、階上の渡り廊下などの個所は工場の雑音の中で、黒く薄汚れた部分を見せていた。また、工場内を行き交う「アラボーチ」<労働者>の姿が、蒸気の中で忙しく動いている。
我々の仕事は凍った地下の古いケーブルを引き上げる作業である。シベリヤでの冬の穴掘りはまことに重労働であった。深さは一メートル位だったがなかなか前進できないまま、三日間が過ぎた。三日間で我々の引き上げたケーブルは、わずか十メートル位のものである。五時頃になって我々は道具を一ヵ所に集め、発電所の事務所の前の玄関に腰を下ろし、寒さの中でマホルカを巻きサイレンを待ちながら休憩をしていた。 ちょうどその時、事務員らしい娘がガラス製の容器に水を入れ、片方の容器にウォッカを入れて、我々の腰掛けていた後ろに「サァー呑みなさい」と言って置いた。我々は突然のことで、びっくりして顔を見合わせた。私が訳を聞くと、ここの「ナチャニック」<所長>は女性であることが分かった。ナチャニックは我々日本人が一生懸命働いてくれた事への感謝なのか、それとも作業の最終日だったためなのか?また、格別寒さの厳しい日だったからか?とにかく彼女からのサービスであった。ところで大変気持ちは嬉しかったが、残念ながらあいにく三人共アルコールに弱かったのである。そのまま何とか言ってウォッカを返した事はまことに失礼だったと思っている。これがロスケだったら奪い合いだったろうに、と思わず苦笑した。 その時私には、見たこともないのに所長は気持ちの優しい女性なんだナーと思われた。どんな女性なのか顔も見られず、「スパシーボ」<ありがとう>の一言も言えず、夕暮れの門を出たのである。そしてこの工場には二度と入ることはなかった。 # by yamamo43 | 2010-11-27 22:14 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年(昭和二十七年)十一月、我々はカンスクに住むようになって最初の冬を迎えた。ある寒さの厳しい晩のことである。バラックの薪が残り少なくなって、朝の食事の用意に支障があってはと、三人で薪の仕入れに行くことに決まり、身支度をした。綿の入った上着の上から五メートルぐらいのロープを胴に巻き付け、「タポール」<手斧>を腰に下げた。これは我々ヤポンスキーが仕事をするときの年中通してのスタイルである。さて目指す場所はレンガ工場の窯場である。その晩はつきのとても明るい夜であった。場所はバラックから五、六〇〇メートル離れていた。勝手の知っている我々は、私が先頭になって真っ白なはらっぱを縦列でどんどん前進した。幾棟も並ぶ乾燥小屋の周囲一帯は、広くバラ線の塀で囲まれている箇所に突きあたった。 我々は焦らずゆっくり一人ずつ潜り抜け、中へと侵入していった。三〇メートルほど進んで窯の前に到着した。窯場は乾燥場のほぼ中央にあって、丁度日本の大きな炭火窯の恰好によく似ていた。我々が着いたときは、まだ窯に火は入ってなく、焚き口近くまで薪がバラバラに置かれていた。薪の種類は三種類くらいで、一メートルほどの長さに切ってあり、これらは全部生木であった。私はおもむろに胴からロープを外した。まずU字型に置き、その上に五本並べて寝転んだ。やっとの思いで担ぎ、背中を起こしたが、仲間の二人は立ち上がるのに全力をあげてもがいている恰好がおかしかった。自分もやっとの思いで立ち上がったくせに・・・。ようやく三人そろって歩き出したが、少し行くとこんどはバラ線をくぐり抜けなければならなかった。そこでロープをゆるめ、背中の薪を雪の上にドサッと置いた。それを一本づつ塀の外へ放り出したのである。その頃は全身すっかり汗をかき、再び、担ぎ直して腰を曲げながら、三人は一列になって、フーフー言いながら雪のはらっぱを進んでいった。この蟻のような姿を見ていたのは、月だけだったのではあるまいか。いささか気がとがめた。 やっとの思いでバラックに着き、思いっきり腹を抱えて笑いあった。あの時の二人は、今頃元気でいるだろうか?私は最近この原稿を書くようになってから無性に懐かしく思い出している。 # by yamamo43 | 2010-11-16 22:23 | 第三章「地方人としての暮らし」
![]() その頃私達の仲間三人は、カンスクで一番大きなウォッカ工場の、廃液を郊外へ流すための、穴掘り作業をしていた。直径四〇センチ長さ四メートルの鋼管を連結する工事であった。 イワンは、“公園に植樹するから、あとの二人を連れて行き白樺の立木をトラックに一台運んで来い”と言った。 無論のこと運転手はロスケで、道具を積んですぐ出発となった。トラックが二十分ほど走ると、運転手は街外れに住んでいたのか、彼の家の前に車を止めて中から猟銃を持って出て来た。 トラックは私が二年前、かって南ウラルへ送られる時に中継所として足を止めた事のある、カンスクのラーゲルの側を走って行った。その時、私は懐かしさのあまり二人にその時の様子を説明した。 やがて車が大地を登りきったとき、遥に見えるカンスクの街並みそして眼下一望出来るラーゲルの四角な建物が見えた。その時はなんとも言えない複雑な思いがした。 途中の平原を走っている時に、あっちこっちの巣穴から立ち上がって、首を左右に動かしてキョロキョロと周りを見回しているリスに似た小動物がいた。運転手は車を止めて何発か発射した。彼はその時二匹射止めたのであった。車は一時間ほどして目的地に着いた。広い白樺林の前で小休止をする。運転手は煙草をくわえたまま、銃を左手に下げて辺りを見回していた。 我々はナチャニックに言われて来た通り、手首ほどの太さで三メートル位の高さの白樺を根っこから掘り起こした。汗を拭きながら、二時頃までにはトラックに一台積み込む事が出来たのである。 この運んだ白樺の木は、街の中央広場にこれから出来る公園造りに使用するもので、我々は夕方までに二十本ほどを全部移植し終えたのであった。私はこの時、門の前の左側へ五本も一列に植えた事を、今でも鮮明に記憶している。 あれから、四十年近く経ったが、あの時汗だくで植えたあの白樺の木は、どの位大きくなったろうか。何とも感慨深いものがある。 果たしてあの公園は、今はどのような姿になって市民の憩いの場になっているのだろうか。などなど、フト思う事もある。 # by yamamo43 | 2010-11-13 22:50 | 第三章「地方人としての暮らし」
カンスクに来て、初めての秋が近づいて来た。
工場の敷地から一〇〇メートルほど離れた所に、帰化している中国人の農家が三、四軒あった。そこは人参畑で生計を立てていたのである。 ある日、夜業の休憩時間にミキサー係のロスケが、我々三名に「パイジョン」<一緒に行こう>と言って外に出た。私は何か手伝うのかと思った。五〇メートルほど行くと、そこは人参畑であった。ロスケは我々にホフク前進せよと手まねをした。我々は“今夜はソ連兵”としてその指揮下に入ったのである。敵は本能寺にあらず、中国人の人参畑であった。その時私は再び囚人に戻る事を恐れ、いささか恐怖感を覚えたが、引くに引かれず夢中になって手当たり次第に引き抜いた。十五本位腹で押さえて、皆と一緒に引き上げたのであった。獲物は五、六本を娘達にくれてやり、皆で葉を残さず始末して、その夜、それぞれ持ち帰ったのである。 翌日も夜業であった。皆で休憩している時、中国人が一人談判にやって来たが、ロスケ達に言いまくられてすごすごと立ち去った。しばらくして皆で大笑いした。私も笑ったものの、何となく中国人に申し訳なく気がとがめた。ミキサーのロスケは“お前の家の犬も何をしていたのだ”と笑いながら喋りまっくっていた。 これは長い秋の夜業での生活劇の一コマであった。 ![]() # by yamamo43 | 2010-11-12 22:10 | 第三章「地方人としての暮らし」
我々三名が採用されたのは、カンスク市でも国営の大建設会社で、社長は囚人帰りのユダヤ人と聞いていた。
会社の敷地には発電所、木工場、レンガ工場と土木部門などに分かれていた。我々の指定された仕事は、レンガ工場の土採り作業である。 班長はカルメック人の五〇歳位のオッさんで、彼等の仲間五名と我々の三名、総員八名が工場から三〇〇メートルほど離れた平地にレールを敷き、トロッコに両側から純土を積み上げると、工場までロスケの「馬車追い」が運搬するのである。往復で四〇分くらいかかった。その間に小休止やら次の準備をしておく。 工場では電気係、ミキサー係のロスケと娘さん達八名で仕事を分担し、レンガの裁断係、それを運搬台に並べる者、乾燥場まで手押車で送る者、最期は棚に並べる者と手順よく働いていた。休息時間はロシア娘のオシャベリや合唱で、とても賑やかで楽しかった。 ここでは若いカルメック人が我々日本人を信用していたのか、よく愚痴を聞かされたものである。聞くところによれば、彼等はカスピ海方面の温暖な地方から、ある日突然ロスケの兵隊に追い立てられるようにして三時間以内に駅に集められ、そのままシベリヤに送られ、この町カンスクに定住したとの事であtt。土地、家そして羊も何もかも置いて来たとか、我々はそばにロシア人がいる事でもあり、心の中で同情しながら聞いたものであった。カルメック人は蒙古人によく似た顔をしていた。彼等は皆我々にとても良くしてくれたが、ロスケ達からは信用されていなかったように私には思われた。その時、つくづくソビエトは多民族国家である事に感心したものであった。 この土採り作業は二・三日もするとだんだん砂が混じるので急遽場所を移動する事になった。それが大変なことで、三〇メートルほどの長さのレールを、五〇メートルも離れた所へ動かす事は、かなりの重労働である。昼休みになると、カルメック人が中国産のお茶を我々にもごちそうしてくれた。 ![]() # by yamamo43 | 2010-11-11 20:36 | 第三章「地方人としての暮らし」
我々を乗せたトラックは、二、三〇キロくらい走ると、やがてカンスクの街へ入った。
運転手はさうがに心得たもので、車を「ミリツ」<警察署>の前に止め、右手で到着した事を知らせたのである。ミリツの中には若手の警察官が一人いた。「今、署長は食事で外出しているから少し待て」と班長に言った。二〇分ほどして署長が入って来た。五名いる我々を見ていささか戸惑いながらも愛想よく会釈した。大きな身体を椅子に下ろして、若い警察官の説明を聞いていた。そしてどこかへ電話を掛けた。その相手は木材の流送をしている所であった。署長は班長を通して、そこへ行く希望者を聞いた。結局、そこへは班長とN氏の二名が行く事に決まったのである。 もう一ヵ所は建設会社であった。そこへは私と後の二名が就職した。そこで初めて班長などに別れを告げ、私達を受け入れる寮へと警察署を後にしたのであった。 寮は町の東北にあたる町外れにある。そこは昔ラーゲルの看守達の宿舎であったとか、その近くをエニセイ川が流れていた。建物は丸太造りで白壁の二階建であった。最初玄関で感じた印象は、古くなってはいたがそれはどいやな気はしなかった。 やがて中から大柄で色白な、可愛い顔をしたマダムが二歳位の赤ん坊を抱えて微笑みを浮かべて出て来た。その時我々三名の日本人は真っ黒く日焼けした顔を一斉に彼女に向けた。マダムは先頭に構えていた私の足元を見るなり、「おお!!カラシーワヤ、サポキ」<可愛らしい長靴を>と目を細くして、頓狂な奇声を上げて笑った。彼らの靴はどれもみな大きくて私の足には合うのが無く、いつも女性用の長靴を履いていたのであった。我ながら情け無いやら、おかしいやら、彼女と一緒に笑い出してしまった。 マダムは我々を階下の大部屋に通した。そこはペチカと真っ白いシーツの敷かれた寝台が三台並んでいた。我々が警察署から四キロ余りの道を歩いて来るまでに準備をしてくれたのであった。 やがて夕方になったが部屋の中はまだ点灯がなく薄暗かった。それぞれ自分の寝台に腰を下ろし、退屈しのぎに先程のマダムの話となり、彼女の亭主はどんな大男だろうか?、と勝手な事を言いながら大笑いしたのであった。 ![]() # by yamamo43 | 2010-11-03 22:07 | 第三章「地方人としての暮らし」
老人組みが中風のN氏を連れてカンスク市に転出したのは、一九五二年一月の頃と記憶している。カンスク市には大きな病院があり、入院する事も可能であった。その上、新しい情報も早く聞く事が出来た。十一名ほどもいたバラックにはロスケの若者もいたが、彼も日本人の中に一人では寂しかったのか、また彼女でも見つけたのか?いつの間にかいなくなった。老人組も講談師のF氏など三名が減り、残ったのは我々五名となった。それからは楽しみだった講談を聞く事も出来なくなったのである。
その頃、我々の中では時々思い出しように「ダモイ」<帰国>の事が話題になった。日本の捕虜兵達は、一九四九年には祖国日本へ帰っているのである。けれども我々囚人組には、一揆オウに帰国話は何も無かった。我々もこんな田舎や山の中にいては、いざ帰国の時に取り残されてしまうのではないか、その事をいつも皆で心配していたのである。 やがて九月に入り、班長のM氏から“我々もカンスク市に集団移動をしよう”との話しが出た。それを聞き我々はこおどりして喜んだものだった。それからは我々の賃金の交渉と、班長は監督や本部の会計との折衝に回るやら、いろいろと奔走したのである。また班長は監督に袖の下を使い皆のノルマのパーセントを水増しさせた事も我々に知らせるなど・・・、彼は中々の遣り手であった。 それから数日後、我々は午後のトラックに乗って部落の景色に最後の別れを告げ、ドンドンと西方のカンスクに向かって走った。 三時間位も走ったろうか、カンスクの街は思ったより大きく、人口は五万人以上はあったらしい。ここはかって私が「ユージノウラル」<南ウラル>へ送られた時に中継所として立ち寄った所でもある。この街で私はいつ帰国出来るかも知らずに働いた。シベリヤ生活最後の街となったのである。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-31 20:47 | 第三章「地方人としての暮らし」
インガシヤでの夏、晴天の日のことである。今日は仕事もないと班長の伝言で、我々バラックの四名は村のマダム三名と日本でいうギョウジャニンニクを採りに、部落の裏山に出掛けた。彼女等は毎年、その頃を見計らっては何人かで採取に来るとのことである。
四キロメートルほどを、雑木林や原っぱを歩いた。誰か場所を見つけて“トンキョウ”な声をだした。ターニャの声である。要領の分からない我々は、サーッと一斉にそこへ集中した。やがて三時間ほども歩き廻ったせいで、私も両手で二束も採ることができたのである。誰言うことなく、「アデハイ」<休息>となり、「アベード」<昼食>となって持参の黒パンを食べ始めた。誰も時計は持っていないので“十一時頃だ”とか勝手なことを言いながら、皆で笑ったのであった。 やがて、彼女等のコーラスとなり、歌詞も分からぬ我々はただただ静かに聴きいった。夏の日も夕焼けに近い頃、三三五五と山を下り始めた。まもなく部落が見え始めた頃、私は牧柵の中で夕餌なのか、草を食む首かせの山羊を見たのである。こんな姿の山羊を祖国ではただの一度も見たことはない。珍しい情景だった。 わたしはその時、今は自由な自分に気付き、その山羊に一抹の哀れさを覚えたのであった。しかし、ソ連の人達にはあたりまえの風景なんだ、と私は自分に言いきかせたのである。 これはただ一度の、インガシヤでの忘れえぬ夕暮れの風景として、強く脳裏に描かれている。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-28 21:02 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年(昭和二十七年)八月、異常にむし暑い日だったと記憶している。夕食をすませて、退屈していた私は寝台の上に横になり脇戸棚に出入りするネズミの駆除方法を考えていた。
そんな時である。「ブルガジル」<班長>が何か毛布に包んだ箱型の物を抱えて入って来た。彼は部屋に入るなり“オイ、皆起きれ!”と声をかけた。我々は、また今夜も貨車が入るのかと思い、一斉に班長の方を注目した。枯れた抱えていた物は、小型の古めかしいソ連製のラジオ受信機だった。皆は“オッ”と声を上げて、何年振りで見るラジオをジッと見つめた。班長はつまみのダイヤルを右、左とまわした。途端に流れて来たのは、『リンゴの歌』であった。日本語の甘い歌声・・・、お互いに顔を見合わせ声を上げて、一斉に拍手して喜んだのである。 その頃の我々の頭の中では、東京都の戦災の跡、もしくは知っている人は広島・長崎の原爆の惨状などであったはずである。私はその瞬間、謀略放送ではないか?と気を回した。同時にまた祖国日本で、こんな呑気な歌を唱えるのだろうか?と不思議な感じすらした。 班長は回りのロスケ達に気がひけるのか、包んで来た毛布を被って聞くようにと言った。皆は暑いのを我慢して、一斉に毛布の中に頭を突っ込んだのである。 そのラジオは班長が我々に聞かすべく、ロスケの知人から手に入れて来たのであった。 暑い夏の夜に祖国を偲びながら、夢中で聞き入ったひと時が忘れられない。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-27 22:03 | 第三章「地方人としての暮らし」
私がインガシヤで働くようになって半年ほどが過ぎた七月頃の事である。その日は山にある本部の製材荷下ろしのため、T氏、N氏そして私の三名が派遣された。仕事は二時間ほどかかり、終了したのは午後三時頃だった。私たちは気持ちのいい汗を拭きながら、一服マホルカをふかしつつ、皆で帰りの方法を考えた。相談の末、結局街に出て汽車で帰る事になった。初めて見る周囲の景色を眺めながら駅に向かって山を下りて来た。二キロ位歩いて田舎の駅に着いた。驚いた事に構内に木材の山が何ヵ所もあった。ここはまさに丸太の街であった。 この街からインガシヤまで、何キロ位あるのか、汽車の料金はいくらかかるのか?皆目分からず、我々は心配しながらしばらく木材の陰に身を隠すようにして腰を下ろし、ひと呼吸入れたのである。我々はその時一斉に『薩摩守忠度』を決め込んだのであった。 ソ連の汽車の連結はかなり長く、機関車は二両で引いて行く。申し合わせは最後の列車の昇降口に乗る事に決めて、発車を待っていたのである。 何分停車したのか、やがて汽笛が鳴りシベリヤ本線上り列車は静かに動きだした。我々はしゃがみながら徐々に客車の方に近づいて行った。間もなく最後の客車を見ると一斉に階段に飛び乗ったのである。我々は違反乗車の心配をしながらも、しばし涼風に生気を取り戻したのであった。五分ほどした頃、ノックがあって四〇才位の男性車掌がドアを開けて顔を出した。「ヤポンスキー、アット、クダー」<日本人、どこまで行くの?>と声を掛けて来た。私は一瞬ひやっとしたがとっさに「インガシヤ」と言った。車掌は「ダワイ、トリールーブル」<三ルーブル出しなさい>と低い声で請求した。我々はすぐ各々三ルーブル渡すと、彼はワシづかみにしてドアを閉めて消えて行ったのである。 我々は今渡した九ルーブルは、あの車掌のポケットマネーになったのだと即座に感じたのであった。 三〇分ほどして我々の部落に列車は停車した。我々は静止するのも待たず、一斉にホームに飛び降りたが、それを見ていたのは駅長の太ったマダムであった。マダムは我々と顔馴じみなので、よくもこの大シベリヤ本線を無賃乗車したものだ・・・と思ったのであろう、ニコニコ顔で迎えてくれたのである。 我々はこの事実をマダムに説明しながら、夕陽の映える小さな駅のプラットホームで、腹をかかえて大笑いしたのであった。 # by yamamo43 | 2010-10-25 21:05 | 第三章「地方人としての暮らし」
![]() 我々の宿舎であるバラックから東に五〇〇メートルほど行ったところに、部落の中ではわりと恰好のよい白壁の家があって、その家の母屋から十五メートルほどの場所に、一坪半位の建物があった。そこのマダムに班長が頼んで、一人三ルーブルで入浴させてもらうように約束していたのである。ただし、水汲みと薪は我々日本人が用意するのであった。私は初めての事でもあったし、その中では新人でもあった。私は土場から枯れた丸太を見つけて来て、四〇センチ位の長さの薪を切る手伝いをした。いくつかの薪の用意が出来たので、それを皆で小脇に抱え「タポール」<手斧>を持って、マダムの家に向かった。 つくとすぐ井戸からツルベで水汲み、それを「ウイドロ」<バケツ>で浴場の釜へ運んだ。三〇メートルほどの間を四人で往復したのである。井戸は屋根のついた巻き上げ式で、深さは十二、三メートルくらいはあったろう。ツルベは分厚い木製で頑丈な金具がついている。寒さのせいもあってか、かなり重く感じた。 # by yamamo43 | 2010-10-24 22:28 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年の夏、私がインガシヤで貨車の丸太積みをしていた頃のことである。丸太置き場の整理を終えたが夕食にはまだ少し早すぎるし、また夕焼けがあまりにも綺麗だったので先輩と三人でぶらりと散歩にでた。
バラックを出て二〇分も歩いた頃に、先輩のH氏が突然スーッと道路の左側の側溝に入り込んだのである。雨量の少ないシベリヤなので溝に水気は何もなく、雑草がたくさん生えていた。 彼は雑草の中の一株を指して“アッ、これはゴボウだ”と大声で言った。私はまさかと思いながら側溝の中に下りて、同じ葉の植物を根元から引き抜いて鼻先に近づけて匂いをかいで見た。それはまさしく懐かしい祖国のゴボウの香りであった。よく見れば葉もたしかにゴボウの葉に違いなかった。いかにも野生らしく根は短く、丁度朝鮮人参のように二股に分かれている。途端に欲が出た私は、狭い側溝を先輩の二人に負けじと出たり入ったり、素手でゴボウの葉をつかみ、引っ張るやら捻じるやら、夢中で掘り起こしたのである。 その時後ろから来た老婆が、背中を丸くして何やら野草を夢中で採っている我々の様子を、訝しげに見ながら「ヤポンスキー、チョゼーライ」<日本人よ、何をしているの?>と声をかけた。先輩の二人は無言だったが、私は「エト、レカルスト」<これは薬草です>と答えた。老婆は納得したらしく、うなずいて通りすぎて行った。 間もなく、両手一杯にゴボウを採った我々は急ぎ足で帰った。その時仲間の一人が“あの老婆に、実はこれを食べるのです。とは言えなかったものナー”と言い、皆で大笑いをした。 夕焼け空はいっそう真っ赤に燃えていた。その晩は早速苦労して抜いたゴボウの塩汁を食べた。いい香りであった。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-23 22:42 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年七月、暑い日の午後であった。今晩六時半から本部の公会堂で「タルザーン」<ターザン>の映画があるので、日本人の我々にも観に来るようにと、迎えのトラックが来たのは五時頃であった。退屈した我々にとっては、いかにも招待状を受け取ったような満足感があった。皆は急いで夕食を済ませ、運転手の連絡を待っていた。やがて五時半頃になると、我々に「パイジョン」<行くぞ>と声をかけて、彼はサーッと運転台に飛び乗った。待っていた五名は彼に続いてトラックによじ登った。二〇分ほど走った頃、急にカーブのところで車が止まったのである。運転手は我々に「薪を拾うように」と言って左側の林の中へ入って行った。我々は言われた通り車から飛び降り、彼のために枯れ木を拾い集めた。
その時、私たちが今登って来た道路を物凄いスピードで走って来る車の、エンジンの爆音が聞こえたのである。勿論、周囲は薄暮であった。我々のトラックを止めた位置が悪かったので、走って来た運転手にはきっと見えなかったのであろう。急停止をしたため、タンクローリーは物凄いブレーキの音をたて三回転して止まったのである。ガラスが散乱し中から運転手が血だらけの顔をして膝立ちしながら、右手を上げて我々のトラックに向かって来た。我々の運転手は「ヤポンスキー早く乗れ」と言った。我々は驚いて一メートル程の薪を小脇に抱え、急いでトラックによじ登ったのである。 運転手は人数を確認すると一目散に現場を離れ、目的地へと急いだのであった。まもなく我々は、何事も無かったような顔をして公会堂の中に入ったのである。 公会堂にはロスケのマダム、子どもたちが大勢入って映画の開始を待っていた。ターザンの映画はアメリカものあった。上映時間二時間位であったが、私は何とも落ち着かない気持ちで観ていた。 やがて映画は終わり、我々は来た時の運転手に送られて帰途に着く。皆それぞれに後味の悪い思いをしているので、映画の感想も何も話さず黙って乗っていた。 事故現場にさしかかった時、私は身震いを覚えた。しかし、例のトラックの姿は無く何事もなかったかのようである。 我々にすれば楽しいターザン映画もなんとなく気分が悪く、とんでもない映画鑑賞の夕べとなった。その後の結末について我々には何も知らされなかったのであった。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-22 22:41 | 第三章「地方人としての暮らし」
十二月の寒さの厳しい夜であった。「ブルガジル」〈班長〉がバラックに来て、“今夜八時にワゴン車が一両きて、坑木の積み込みに入る・・・・・と「ナチャーニック」〈現場長〉から話しがあった”と言う。皆は無言で聞いていたが、この作業がここでは一番苦手な仕事であった。二メートルほどの坑木を貨車に積み込む作業である。
ソ連の有蓋五〇トン貨車には、いくら積んでも一向に一杯にならない。五人が貨車に踏み板を掛け、一人で一本ずつ担ぎながら二〇メートル位の土場を蟻のようにせかせかと往復するのである。疲れて少し速度を緩めると汗が冷えて一層寒さが増すのであった。外は真っ暗で、部落の灯りも時間が立つに連れてポツリポツリと消えていく。ただ構内の電柱の明かりと駅の灯りとが、ぼんやりと鈍く光っていた。 ここインガシャでは時々狼の遠吠えを聞く事があった。我々には珍しくもあり、また何とも言えない寂しい気持ちにもなったものである。 誰かがあまりの寒さに耐えかねて、貨車のそばに木屑を集めて焚き火をしたのである。その時皆で一斉に、班長へ聞こえよがしに「アデハイ」〈休息〉と言いながら焚き火の回りに集まって、手をかざして暖をとった。時刻は午前二時であった。 班長は、皆に“もう一息だ”と言って睫毛の氷を右手で払った。“貨車の坑木も八分目以上は積んだだろう”と吐くように言った。 皆の日焼けした顔が、焚き火に照らされて真っ赤に光って見えた。皆それぞれに煙草をゆっくり吸ってから、再び黙々と働き出したのである。辛かった夜中の積み込み作業も、午前四時には全部終了した。 私はこの作業で知った事が一つある。それは引き込み線の貨車の停滞時間は、何時間以上か経過すると反則金を課せられるという仕組みがあるという事だった。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-20 16:19 | 第三章「地方人としての暮らし」
一九五一年(昭和二十六年)十二月、わたしはシベリヤで五度めの大晦日をここインガシャで迎えたのである。
十坪ほどのバラックは大晦日と言っても何の変化もなく、夕暮れの部屋の中央のテーブルには、皿の灯油の薄明かりが互いに向き合って寝台の上にあぐらをかいて食事をしている仲間の姿が、うしろの壁にそれぞれの大きさの影を映していた。 皆、祖国での我が家の年取りを思い出しながら懐かしそうに話し合っていた。私の夕食の鍋は、まだ他の鍋と一緒に暖炉の上でグツグツと音をたてていた。今日のはいつもの芋汁より、少々張り込んで買って来た肉の入った塩汁であった。 部落の駅の近くに三坪ほどの「キヨスク」〈売店〉があった。そこには一日に二度、近所からマダムが来て一時間位店を開けるのである。酒の好きな何人かは、手廻しをよくして買って来て、そのウォッカをさも美味しそうに呑み、語り、食べていた。こんな毎日の生活の中では偏食の繰り返しである。田舎のキヨスクなので目新しい物はめったに入らなく、我々は主食の黒パンを買う位のものであった。 キヨスクは時には部落の集会所でもあり、ロスケのマダム達が大声で喋り大声で笑う場所でもあったようである。 大晦日の夜、それぞれの食事の済んだ頃、F氏が“さぁ、昨日の続きでも始めるか”と皆の顔を見回した。彼は樺太真岡の出身で厚い眼鏡をかけた人が、講談がとても上手でいつも皆を楽しませてくれたのである。三日位前から「宮本武蔵」を語ってくれていたのであった。とても素人とは思えないほどの語りで、身振り手振りも交えて実に迫力のある名講談であった。一同はシンと静まり返って、夜のふけるのも知らずに彼の熱演に聴き入ったものである。 年も明けて五月頃になったある日、年寄り連中の四人グループはお互いに身体を気づかって隣の都市のカンスクへ移って行った。その一人に勿論F氏も含まれていた。 それ以来、彼等と再び会う事はなかったのである。 # by yamamo43 | 2010-10-18 21:52 | 第三章「地方人としての暮らし」
トラックの上は濃い霧に包まれていた。「マローズ」〈寒波〉がやって来たのである。カラ松林がシベリヤ大地にぼんやりかすんで見えた。私は厳しい寒さを我慢しながら、今走っている山小屋への道を、今朝は昨日と逆に街へ向って山を下っている事が不思議に思われた。その時フト、自分が今この地で生きている事を再確認したのである。トラックは間もなく事務所の前でとまった。私は「ナチャ-ニック」〈所長〉に会わす顔もなく、ただ早足に理髪店に向かう。そして道々に彼S氏に対する口上を考えながら、乳白色に煙る町並みを急いだのである。 理髪店に着いたのは九時頃だった。S氏には山での事情を説明して了解してもらい、再び世話になる事にした。少々肩身の狭い思いをしながらも、雪投げや庭掃き、店の掃除などを手伝った。それから三日後の日曜日を利用して、彼が時々出張サービスをしている二〇キロメートルほど離れた東方のインガシャという集落に、日本人が十名ほどで貨車に丸太や製材の積み込みをしている所があり、そこへ連れて行ってくれると言うので、二人で列車に乗ったのである。 目的地に着くと彼等のバラックに案内してくれ、私を皆に紹介してくれた。ここは樺太からの人達が八名、千島からの一人と九名で働いていた。彼等は殆どが密航者で、二、三年の刑を終えた人達ばかりであった。 班長のM氏は敷香の人で統率力のある立派な人物であった。私の様子を見て分かったのか、何でもたくさん食べて早く元の体力を付けるようにと、私に何がしかのお金を貸してくれたのである。 それからは私なりに張り合いも出て、昼夜を問わず駅の引き込み線に入る貨車の丸太積み、ワゴン車の製材積みと、皆に負けじと働いたのであった。 ここの工場では我々とロスケとで、多い日には二〇名位が働いていた。ロスケの責任者が一人駐在していた。本社はインガシャから十五キロメートルほど離れた山の街にあって、造材部門や製材所等もあった。私はここで、初めて給料を手にした時の喜びを今でも忘れる事が出来ない。 それから部落の新顔として「マガジン」にも買出しに出入りする事が出来たのである。 # by yamamo43 | 2010-10-17 14:17 | 第三章「地方人としての暮らし」
私が車に乗った時、もう一人新しい「シューバー」〈毛皮〉を着たロスケが一緒に乗った。トラックは一時間ほどカラ松林を走って、ある集落に着いたのである。突然、毛皮のロスケが「パイジョン」〈一緒に来い〉と声をかけて、車から飛び降りたのである。私はあまり突然だったので、一瞬びっくりしたが、彼の言う通り車から降りた。彼はそこから一五〇メートルほどの所にある、自分の家に私を案内した。家の中からマダムが出て来て、愛想よく「ヤポンスキー、パジャルスター」〈日本人どうぞ〉と言って、私の帽子をとるやら汚れた穴だらけのシューバーを脱がせてくれるやら、とても親切に私を迎えてくれたのである。彼女は私にペチカの側に来てあたるようにと、椅子を持って来てくれた。そして主人と私に食事の用意をしてくれる。私は昔の知人にでもあったかのような錯覚で、胸が一杯になった。その時、久し振りで食べて実のたくさん入った熱いスープの味は今でも忘れられない。 マダムが言うには、一昨年までは日本人を何人も使っていたとの事である。「スズキ、タナカ、サトウ」など何人かの名前を揚げていた。そして彼女は私に気を遣ってくれてか、造材山に入ってもロスケと何人かの中国人だけなので、私がその中に入っても大変ではないか、と言うのであった。それに現場まではここから歩いて3キロメートルもあると言う。 しかし、私にすれば紹介してくれたS氏の顔もあるので、一応行くだけは行って見ようと思い、親切なロスケ夫妻に別れを告げて夕焼けに映える静まり返った雪の山道を、陽の沈まぬうちにと急いだのだった。 山小屋に着いた時はもうすっかり日が暮れて、何となく気持ちが悪かった。小屋のドアを開けると、仕事を終えたロスケ達が五~六名いて、一斉に私を見た。私は一番からだの大きなロスケに、持って来た添書を渡した。彼はそれをサァーッと読み終わると、「所長は町に出て不在である」と言った。何も持たずに来た私を見て驚いたらしく、馬鈴薯と鍋、ナイフを渡し一人で煮て食べるようにと言ったのである。 私は一先ず夕食を終えた。ロスケ達もそれぞれ寝ぐらへ帰ったのか、小屋に残されたのは私一人になった。私はそのまま、長椅子に横になってしばらく寝た。そのうちに寒さと体の痛さで眼が覚めた。その頃はもう外は薄明るくなっていて、ロスケ達の話し声がしていた。 その時、急にマダムに言われた事を思い出した。そして自分自身も、ここでの仕事は続かないような気がした。外ではトラックのエンジンの音がしたので急いで飛び出した。誰にも挨拶もせず、トラックに飛び乗ったのであった。 昨夜馬鈴薯をくれたロスケには何とも申し訳ない気がして、私は心の中で詫びながら、無言で立ち去る事の後めたい気持ちで一杯であった。 # by yamamo43 | 2010-10-16 22:41 | 第三章「地方人としての暮らし」
老婆に言われたように東を指して一キロほど行くと、「ミリツ」〈警察〉の看板が眼に入った。私は頑丈なドアをノックして中に入った。事務室には宿直の若い警察官が一人、暖炉にあたりながら新聞を見ていた。私は釈放されてここに来た事を告げた。彼は私の差し出した「プロプスカ」〈証明書〉を一見して、二言、三言話しをした。この部落に日本人の「パリクマーヘルスカヤ」〈理髪店〉があるので、そこへ行くようにと言いながら、外へ出てその店を親切に教えてくれたのである。
言われた通り歩いて二〇〇メートルほどの左側寄りの所に、小さな理髪店を見つけた。久し振りで日本人に会えるのかと思うと、嬉しさが込み上げて来て理髪店のドアを力強くノックした。出て来た白衣の人はまさしく日本人であった。お互いに手を取り合い、ただただ胸が一杯で何も言葉は出なかった。 彼S氏は密航組で、二年の刑が明けここの部落に落ち着いた事、樺太落合町の王子製紙で理髪店をしていた事、兄は私の居た白浦の炭鉱で働いていた事等が分かった。彼は何かと私の面倒を親切にみてくれるのだった。私は釈放された時に支給された三十七ルーブルを、ウォッカや煙草にかえて、ここで三日間すっかり世話になったのである。 そのうち彼の勧めで造材山に入る事になり、街はずれにある事務所へ案内された。そこでは所長が一人机に向って仕事をしていた。理髪店のS氏は所長と顔なじみらしく、私の事を一生懸命頼んでくれたようであった。その時の私は食料もなく無一文だったので、何がしかの前金をくれるように話してくれたらしかったが、それは断られたようである。しかし、所長は私の事を現場の長へ宛てて、一筆添書を書いてくれた。もうじき山へ上がる車が出るので、それに乗るように言われた。そこで私は名残を惜しみながらS氏と別れ車に乗ったのであった。 # by yamamo43 | 2010-10-15 21:09 | 第三章「地方人としての暮らし」
ノボシベリウスクを発車した夜行列車は、時間がたつにつれて水兵達も一般人もそろそろ眠くなって来たのか、会話やざわめきも次第に静まって来た。私と話しをしていた兵隊達も疲れて来たらしく、それぞれ席に戻って行った。一人になった私は何となく不安もあり、反面ある程度開き直りの心境でもあった。祖国を遠く離れてウラル山脈の麓まで、よくぞ来たものだと不思議に思った。列車は寝静まった窓辺に轟音を響かせながら、東に向ってどんどん走っている事が私にとってはせめてもの慰めであった。 私は解放感や疲れもあったせいか、いつの間にか寝ていたらしくハッとして眼が覚めた。寝ているロスケに時間をきくことも出来ず、窓の曇りを手で拭きながら暗い車窓に目をやった。列車は淡々と続く森林地帯を走って行く。間もなく女性の車掌が廻って来た。顔を見るとノボシベリウスクの時の車掌ではなかった。どこかで交替したのだろう。彼女は私に「ヤポンスキー、スコーラ、ニェスピー」〈日本人、もうすぐだから眠っては駄目〉と言った。やっと来たのか・・・・・・と思ったとたん、眠気がすっかり消えてまった。トランクを身近に置いて降りる仕度をしたのである。列車は間もなく停車した。彼女に「ここで降りるのだ」と言われて、急いでレールのそばに飛び降りた瞬間、寒気が全身に刺さるのを覚えた。 駅まで五〇メートルほど歩いた。そこでは私以外に降りた者もなく、一人で薄暗い待合室に入った。田舎の駅で暖炉には火の気もなく、私は長椅子の上にトランクを枕にして横になりながら、夜の明けるのを待つことにした。二時間ぐらいも寝たろうか、寒くて眼が覚めた。そのころ東の空がやっと薄明るくなって来たが、田舎の街はまだまだ深い眠りの中にあった。落ち着かない気持ちで明るくなるのをじっと待った。 一時間くらいたった頃、こちらへ向って近づいて来る「バブシカ」〈老婆〉の姿を見た。私は老婆に「ミリツ」〈警察〉はどこかと聞くために外に出た。その時は大分夜も明けて、民家が見えるほどであった。部落は路線に平行して一本道に並んでいた。私は老婆に「バブシカ、ドブレウトロ、グヂエミリツ」〈お婆さん、お早う。警察はどこですか〉と聞いた。老婆は東を指しながら、「イヂ、一キロメートル」〈ここから一キロメートル〉と教えてくれた。私は「ボリショーイ、スパシーボ」〈大変ありがとう〉と礼を言って歩き出した。民家ではそろそろ起き始めたのか、どこの家の煙突からも白い煙が出ていた。それがとても懐かしくて、ほのぼのとした気持ちで眺めながら、警察を目差して歩いていた。寒気の厳しい夜明けの田舎道を歩いている者は、私一人であった。 # by yamamo43 | 2010-10-14 13:34 | 第三章「地方人としての暮らし」
私は火の気のない小屋の中で、凍った黒パンを食べ砂糖を少しなめてザフトラカ〈朝食〉を済ませた。その日の午前中、ついにハイジャイン〈主人〉は小屋へ顔を見せずに出勤したらしい。これから先、私を一体何処へどうするつもりなのか。思うように聞く事もできず、ロシア語の下手な自分に苛立ちを覚えた。 午後になって私は急に外へ出てみたくなった。小屋を抜け出して三〇〇メートルほど歩いて行くと、マガジン〈商店〉を見つけた。私はもの珍しさのあまり店の中に入ってみた。取りあえずコンフェクト〈あめ〉五ルーブルを買った。それは私がシベリヤに来て初めての買い物であった。嬉しさのあまり一目散に小屋に戻った。まるで子供のような心境になって、自分ながら滑稽だった。コンフェクトはとても美味しく、甘酸っぱいジャムのようであった。 五時頃になって、ハジャインが私を送るらしく迎えに来た。私は薄暗い街を彼に連れられて駅に向った。夜の駅は明るくて、自分のみじめな姿を見て我ながら恥ずかしくなった。かれは何処まで送るのか、シベリヤ本線のハバロフスク行きの列車に乗り換えたのである。 その時、ハジャインは私の事を女性車掌に頼んだらしく、私には何も言わずに黙っていなくなってしまった。 私は何処へ行くのか・・・・・・・。これから先は全く自分の意志で行動するのだ、と自分に言い聞かせながらも心配であった。座席に腰を下ろしたがなんとなく不安である。その時、ふとトムスクのラーゲルで別れる時に言われた「スタレーカ」〈老人〉の言葉を思い出した。 この列車にはロスケの水兵が大勢乗っていた。彼等は休暇の帰りなのか、それとも転属なのか?私は勝手に想像した。そのうちに水兵達は、汚れた服を着て眼鏡をかけた、小さい奇妙な格好の外国人である私を見つけて、物珍しそうに二、三人囲りに寄って来たのである。 彼等の第一声は、「テイ、カコイナッイ?〈お前は何人種か〉であった。「ヤ、ヤポンスキー」〈私は日本人〉と答えた。すると「ポチモ、パパール」〈どうして捕まった〉と聞くので私は理由を話した。彼等は私が腹を空かしているのではないかと心配してくれて、鶏足やパビロス〈口つき煙草〉をくれた。 考えてみると彼等はその時、私の釈放祝でもしてくれたような気がして、とても嬉しかった。それと同時に、チョルマ時代に赤いチョッキを作ったり、火縄を作った若い水兵の顔などがつぎつぎと夜汽車の窓に映った。 そして、あの時の水兵は今頃どうしているのだろうか、急に懐かしくなった。夜汽車は力強い響きをたてながら、暗闇の中を東へ向って驀進していくのであった。 # by yamamo43 | 2010-10-13 14:44 | 第三章「地方人としての暮らし」
![]() 私は五年間の上金(あげきん)を三十七ルーブル(一万円余り)と三日間分の黒パン、少量のサーハル〈砂糖〉を受け取ってチマンダ〈トランク〉に詰めた。職員は私に「パイジョン」〈一緒に行こう〉と、先に歩き出した。私はそこにいた女子職員に「スバシーボ」〈ありがとう〉と挨拶をして玄関を出たのである。 夕方の寒さは一層厳しく、垢で汚れたラーゲルの被服に容赦なく突き刺さった。しばらく歩いて職員の家に着いた。 私は母屋に続く六畳間ほどの作業小屋に入れられたのである。土間には鉋屑が一面に散らかっていた。いろいろな道具や板切れが壁の棚の上に置いてあった。少し待っていると、彼はシューバー〈毛皮の外套〉を二枚持って来て、これを着て寝るようにと言った。小屋を出る時に彼は、「ここから出てはいけない」と注意して出て行った。 私は窓から入るかすかな明かりで、土間の鉋屑を小屋の片隅にかき集め、その上にシューバーを一枚敷いた。もう一枚を掛けて、自由人になって初めての眠りについたのであった。 寒かった一夜も二枚のシューバーで大分助けられた。眼が覚めたのは、母屋で飼っている鶏の甲高い鳴き声によってである。 ![]() 朝7時頃だった。ドアが開いて、マダムが何も言わず薬缶とコップをにゅっと差し出してよこした。私はすぐに起き上がり「ドブレ、ウートロ」〈お早ようございます〉と挨拶をし、「スパシーボ」〈ありがとう〉と礼を言って受け取った。マダムは黙って出て行った。 私は、「この寒いのに、水をどうして飲める訳がないではないか」と一人言をいった。しばらくしてフト気がついた。それはマダムが私に洗顔をするための水をくれたのだった。その時、私は自分の早合点を大いに恥入らねばならなかった。 # by yamamo43 | 2010-10-11 21:27 | 第三章「地方人としての暮らし」
早いものでトムスクに来て四ヵ月が経った。私は受刑最後の初冬を迎えたのである。来月はいよいよ満期釈放となるのであった。
ふとその時、十四年前に旭川の軍隊で召集解除になった時の事が、さあっと頭の中をよぎった。あの時のような嬉しさは湧かない。ただただ不安な毎日を何事にも耐えて今日まで過ごして来た事が、我ながら不思議に感じられた。これも健康なればこそと、心から親に感謝する。 私が釈放になる日は十一月上旬の予定であった。いよいよ釈放の一週間ほど前になったある日、監理局職員が収容所にやって来た。私のパスポートを作成するために、写真と指紋をとって行った。 「ミシヤ、ハラショー」〈山本、よかったなぁー〉と班の中で一番の「スタレーカ」〈老人〉が、私の顔を見ながら言った。私は「ダー」〈はい〉と何故か重い口調で返事をした。老人はしばらくしてから「ミシヤ、お前わしの婆さんの所へ尋ねて行け」と真面目な顔つきで言ってくれた。私は嬉しい事を言ってくれるものだと思って、心から「スパシーボ」〈ありがとう〉と言った。 ここトムスクでの仕事は、毎日台車の丸太積みであった。今までの鉄道工事から見ると、ずっと身体は楽であった。それに気候も多少暖かく感じた。しかし、痩せた体と皮膚の鮫肌は、なかなか元通りに回復しなかった。 やがて待ちに待った釈放の日が来た。おかしなもので私はロスケ達と別れるのが、なんとなく名残惜しくなってきていた。例のスタレーカが「ミシヤ、汽車の中では絶対寝るなヨ。靴まで持って行かれるぞ。証明書は肌にしっかりつけて置け。盗まれたらお前はまたチョルマ〈刑務所〉だぞ。」などと、こまごまと注意をしてくれた。その事が私には嬉しくて、涙が込みあげてきた。 私は興奮しながら、最後に班の皆に「ダスビダーニ、ダスビダーニ」〈さようなら、さようなら〉と心から深々と挨拶をした。貴重なパンを売ってやっと手に入れた、ロスケが持ち歩くベニヤ板のチマダン〈トランク〉をさげて、監理局の職員の後について衛門に向った。衛門には監視兵が三人ほどいて皆ニコニコしながら、一様に口を揃えて「ミシヤ、ハラショー」〈山本、良かったな〉と言いながら、「ここの門を出たならもう入れないのだから、またここに来ては駄目だ」と言うのであった。 私はその時、なんとも言いようのない複雑な感情を押える事ができなかった。夢中で衛門を出た時、初冬の太陽が大分沈み辺りは薄暮であった。 「さあ、私は今から自由の身なのだ!『ザクリチョンネ』〈囚人〉ではないのだ!」と自分に何度も繰り返しながら言い聞かせたのである。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-10 22:53 | 第二章「ラーゲル生活あれこれ」
トムスクのラーゲルの作業場は、街の中を十五分ぐらい歩いたところの町はずれにあった。そこはオビ川の支流が通り抜けていて、かなり広い範囲に塀が巡らされていた。囲いの中には木工場、木材乾燥場、木工製作所、陶器工房など今まで暮らした収容所とは全く違った雰囲気であった。
そこの生活に少し馴れてきたある日、物珍しさのあまり、一人で休憩時間を利用して見物をしながら歩いて見た。ひょっとして日本人に会えるかも知れない、と思ったが残念ながら東洋人には一人も出会わなかった。 見物をしながら、わたしが最も興味を持ったのは陶器工房であった。中年のロスケが一生懸命ロクロを回しながら、壷を作っていたのである。この辺で粘土が採れるのだろうか、こうして自分の趣味を生かせる囚人は幸せなものだと思った。ここはラーゲルではなく、職業訓練所ではないかと、羨ましく思いながら見学させてもらった。口髭をつけてロクロを回していた人はロスケではなく、中央アジアの人種、パキスタン人であった。 現在「貴方の趣味は?」と人に聞かれると、私は「絵画と陶芸です。」と答えるのであるが、考えて見ると私の陶芸はこの辺から芽生えたのかも知れない。 # by yamamo43 | 2010-10-09 13:54 | 第二章「ラーゲル生活あれこれ」
一九五〇年(昭和二十五年)一月、私の刑も残すところ一年足らずとなった。だんだん刑が軽くなると、囚人達は南のラーゲル「ウプラウレーニヤ」〈管理局〉に近い収容所の方に下って来るのであった。
私はアシノから監視兵と一緒に、馬橇でトムスクのラーゲルに収容された。そこの班長はドイツ人らしかった。全員で十五、六名の班であった。燃料の木炭造りで、白樺の薪を六センチ位の厚さに輪切にしたものを、小さく三角形に「タポール」〈手斧〉で割るのである。ノルマは幾立方メートルで計算した。 それぞれ分担をきめ、薪を運んで台に乗せる者、切る者、割る者そして保管庫に運搬する者と、内容は大変単純であったが、たまたま運搬に当ると、これは身体の小さい私には重労働であった。 保管庫は大きな二階造りの倉庫であるが、一階の左右が幾つもの仕切りになっていて、自動車が入って来ると仕切板を外して車に注ぎ込むのである。 木炭は大きな箱に入れて、二人で梯子を登って二階から下の枠にあけるのである。私は前になっても後になっても、足先や踵が箱にぶつかるのであった。ロスケ達もきっと背の低い私と組むのは嫌であったろうと思う。 ある寒い日の午後のことであった。突然サイレンが塀の中で鳴り出した。私はすぐ休憩室の窓から覗いてみると、150メートルほど離れた「インクラ」〈木材の山〉の下の方から凄い音を立てて燃えてきたのであった。 私はとっさに、野次馬気分で部屋から飛び出そうとしたところ、ロスケのスタレーカ〈老人〉が私に「ミシヤ、ニエハジー」〈山本、行くな〉と大声で止めたのである。後で他のロスケが言うには「現場に顔を出すと、嫌疑をかけられるから」ということであった。 老人の言葉の意味が分かったとき、本当に良かったと心から感謝したのである。近々刑が終わるという矢先なのに、つまらない事でまたと思った時、背すじがザワッとした事を今でも忘れられない。 火事はすぐに町から消防車が来て消火した。大事には到らなかったものの、誰か囚人の放火だという噂が流れた。 ![]() # by yamamo43 | 2010-10-08 16:50 | 第二章「ラーゲル生活あれこれ」
一九四九年は私にとってラーゲルの終点であった。そのアシノでは、日本人は私とT氏の二人だけで、ドイツ捕虜兵の班に加えられたのである。
翌日からさっそく仕事に出された。何か木材の工場の整理であったような気がする。仕事を終えてバラックに戻った時、T氏は何処へ移送されたものか姿がなかった。彼は樺太のどこかの町で理髪店をしていたらしかったが、足の不自由な人だったので仕事には出なかった。 わたしはそこで一人きりになり、ドイツ兵達と五日ほど一緒に暮らしたが、間もなく彼らとも別れて木材を流送す班に入れられたのである。 ここでの仕事はわりと楽なものだった。川の中に作業用の仮橋が四方に巡らせてあって、幅広い板が二列に敷かれてあった。そこを歩きながら、長い流送竿で丸太の流れがスムーズに行くように管理するのであった。 そこには女性のアラボーチが数人いて、私と同じような仕事をしていた。五〇メートルほど離れていたので、ついに話しかけることもなかった。彼女たちも私と同じ身の上なのか、それとも一般地方人なのか分からずじまいである。 私の刑も余すところ一年余りとなった。そこでは丸太に乗る仕事もなく、橋から転落もせず、私のラーゲル生活は一番遠い位置にあったここアシノの収容所で別れを告げることになる。そして南のトムスクへと移動したのであった。 # by yamamo43 | 2010-10-07 22:16 | 第二章「ラーゲル生活あれこれ」
一九四九年(昭和二十四年)ハバロフスク移送中継所には、各方面からいろいろな人種が集合していた。日本人はマガダン方面から帰った人たちが二〇〇名ほど先に入っていたが、私の知っている人は誰もいなかった。そのうちに食料が配給された。駅に集合して囚人列車に乗ったが、何処まで行くのか全く分からなかったのである。 やがて列車がある駅に来た時、ロスケが「ゴーラド、チタ」〈チタ市〉と言っていた。チタ駅の構内には、満州国からの戦利品の自動車、トラック、電柱等いろいろな物が山積みされていた。 次に降ろされた所はイルクーツクであった。ここで二日ほど休養して、再び列車に乗せられた。車内は日本人を入れて二十名位であった。 私は車窓から見たバイカル湖のあまりの広大さに、何か故郷の海でも見ているような錯覚をおこしたのであった。 次に降りた所はカンスクという街で、ここのラーゲルは市の郊外にあった。背面は台地状の禿げ山で、前面は平坦な農場に見えた。 ここは今まで労働して来た収容所とは全く感じの違う、何となく長閑なラーゲルに見えた。後で分かったのだが、ここは刑の軽い囚人が収容されている所らしい。しばらくここに置いてくれたら多少は私の栄養失調も回復するであろうと思ったが、残念ながらここでの休養は一日だけで、明日はいよいよ目的地の「ユージノ、ウラル」〈南ウラル〉に入るのである。 列車は西に向かってどんどん進んだ。初めて見るシベリヤ鉄道は、私の眼に入る景色が総て物珍しく、何も彼も忘れて見入ったものであった。やがて私と日本人のT氏とを残して全員クラスナヤルスクで降ろされたのである。その時、車内に残された二人は急に心細くなって、クラスナヤルスクの駅をどのように通過したのか、全く記憶がないほどただ不安だけが先だったのである。 列車がこの駅を出発してから、一昼夜が過ぎた。移送の都度、複雑な思いにかられながらも、列車での移動は三年のラーゲル生活で多少馴れてきていた。 ノボシベリウスクの中継所に着いたのは二日めの午後であった。ここの駅は市街の高台にあって、麓の方には大きな建物が無数に広がり、私がこれまで見てきたうちで一番の大都市であった。 いよいよシベリヤ本線とも別れ、北の町アシノにトラックで移送されたのである。 # by yamamo43 | 2010-10-06 15:45 | 第二章「ラーゲル生活あれこれ」
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