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第三章「地方人としての暮らし」~大きな「マダム」

 我々を乗せたトラックは、二、三〇キロくらい走ると、やがてカンスクの街へ入った。
 運転手はさうがに心得たもので、車を「ミリツ」<警察署>の前に止め、右手で到着した事を知らせたのである。ミリツの中には若手の警察官が一人いた。「今、署長は食事で外出しているから少し待て」と班長に言った。二〇分ほどして署長が入って来た。五名いる我々を見ていささか戸惑いながらも愛想よく会釈した。大きな身体を椅子に下ろして、若い警察官の説明を聞いていた。そしてどこかへ電話を掛けた。その相手は木材の流送をしている所であった。署長は班長を通して、そこへ行く希望者を聞いた。結局、そこへは班長とN氏の二名が行く事に決まったのである。
 もう一ヵ所は建設会社であった。そこへは私と後の二名が就職した。そこで初めて班長などに別れを告げ、私達を受け入れる寮へと警察署を後にしたのであった。
 寮は町の東北にあたる町外れにある。そこは昔ラーゲルの看守達の宿舎であったとか、その近くをエニセイ川が流れていた。建物は丸太造りで白壁の二階建であった。最初玄関で感じた印象は、古くなってはいたがそれはどいやな気はしなかった。
 やがて中から大柄で色白な、可愛い顔をしたマダムが二歳位の赤ん坊を抱えて微笑みを浮かべて出て来た。その時我々三名の日本人は真っ黒く日焼けした顔を一斉に彼女に向けた。マダムは先頭に構えていた私の足元を見るなり、「おお!!カラシーワヤ、サポキ」<可愛らしい長靴を>と目を細くして、頓狂な奇声を上げて笑った。彼らの靴はどれもみな大きくて私の足には合うのが無く、いつも女性用の長靴を履いていたのであった。我ながら情け無いやら、おかしいやら、彼女と一緒に笑い出してしまった。
 マダムは我々を階下の大部屋に通した。そこはペチカと真っ白いシーツの敷かれた寝台が三台並んでいた。我々が警察署から四キロ余りの道を歩いて来るまでに準備をしてくれたのであった。
 やがて夕方になったが部屋の中はまだ点灯がなく薄暗かった。それぞれ自分の寝台に腰を下ろし、退屈しのぎに先程のマダムの話となり、彼女の亭主はどんな大男だろうか?、と勝手な事を言いながら大笑いしたのであった。

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# by yamamo43 | 2010-11-03 22:07 | 第三章「地方人としての暮らし」

第三章「地方人としての暮らし」~カンスク市への集団移動

 老人組みが中風のN氏を連れてカンスク市に転出したのは、一九五二年一月の頃と記憶している。カンスク市には大きな病院があり、入院する事も可能であった。その上、新しい情報も早く聞く事が出来た。十一名ほどもいたバラックにはロスケの若者もいたが、彼も日本人の中に一人では寂しかったのか、また彼女でも見つけたのか?いつの間にかいなくなった。老人組も講談師のF氏など三名が減り、残ったのは我々五名となった。それからは楽しみだった講談を聞く事も出来なくなったのである。
 その頃、我々の中では時々思い出しように「ダモイ」<帰国>の事が話題になった。日本の捕虜兵達は、一九四九年には祖国日本へ帰っているのである。けれども我々囚人組には、一揆オウに帰国話は何も無かった。我々もこんな田舎や山の中にいては、いざ帰国の時に取り残されてしまうのではないか、その事をいつも皆で心配していたのである。
 やがて九月に入り、班長のM氏から“我々もカンスク市に集団移動をしよう”との話しが出た。それを聞き我々はこおどりして喜んだものだった。それからは我々の賃金の交渉と、班長は監督や本部の会計との折衝に回るやら、いろいろと奔走したのである。また班長は監督に袖の下を使い皆のノルマのパーセントを水増しさせた事も我々に知らせるなど・・・、彼は中々の遣り手であった。
 それから数日後、我々は午後のトラックに乗って部落の景色に最後の別れを告げ、ドンドンと西方のカンスクに向かって走った。
 三時間位も走ったろうか、カンスクの街は思ったより大きく、人口は五万人以上はあったらしい。ここはかって私が「ユージノウラル」<南ウラル>へ送られた時に中継所として立ち寄った所でもある。この街で私はいつ帰国出来るかも知らずに働いた。シベリヤ生活最後の街となったのである。

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# by yamamo43 | 2010-10-31 20:47 | 第三章「地方人としての暮らし」

第三章「地方人としての暮らし」~首かせの山羊

インガシヤでの夏、晴天の日のことである。今日は仕事もないと班長の伝言で、我々バラックの四名は村のマダム三名と日本でいうギョウジャニンニクを採りに、部落の裏山に出掛けた。彼女等は毎年、その頃を見計らっては何人かで採取に来るとのことである。
 四キロメートルほどを、雑木林や原っぱを歩いた。誰か場所を見つけて“トンキョウ”な声をだした。ターニャの声である。要領の分からない我々は、サーッと一斉にそこへ集中した。やがて三時間ほども歩き廻ったせいで、私も両手で二束も採ることができたのである。誰言うことなく、「アデハイ」<休息>となり、「アベード」<昼食>となって持参の黒パンを食べ始めた。誰も時計は持っていないので“十一時頃だ”とか勝手なことを言いながら、皆で笑ったのであった。
 やがて、彼女等のコーラスとなり、歌詞も分からぬ我々はただただ静かに聴きいった。夏の日も夕焼けに近い頃、三三五五と山を下り始めた。まもなく部落が見え始めた頃、私は牧柵の中で夕餌なのか、草を食む首かせの山羊を見たのである。こんな姿の山羊を祖国ではただの一度も見たことはない。珍しい情景だった。
 わたしはその時、今は自由な自分に気付き、その山羊に一抹の哀れさを覚えたのであった。しかし、ソ連の人達にはあたりまえの風景なんだ、と私は自分に言いきかせたのである。
 これはただ一度の、インガシヤでの忘れえぬ夕暮れの風景として、強く脳裏に描かれている。

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# by yamamo43 | 2010-10-28 21:02 | 第三章「地方人としての暮らし」

第三章「地方人としての暮らし」~『リンゴの歌』が電波にのって

 一九五二年(昭和二十七年)八月、異常にむし暑い日だったと記憶している。夕食をすませて、退屈していた私は寝台の上に横になり脇戸棚に出入りするネズミの駆除方法を考えていた。
 そんな時である。「ブルガジル」<班長>が何か毛布に包んだ箱型の物を抱えて入って来た。彼は部屋に入るなり“オイ、皆起きれ!”と声をかけた。我々は、また今夜も貨車が入るのかと思い、一斉に班長の方を注目した。枯れた抱えていた物は、小型の古めかしいソ連製のラジオ受信機だった。皆は“オッ”と声を上げて、何年振りで見るラジオをジッと見つめた。班長はつまみのダイヤルを右、左とまわした。途端に流れて来たのは、『リンゴの歌』であった。日本語の甘い歌声・・・、お互いに顔を見合わせ声を上げて、一斉に拍手して喜んだのである。
 その頃の我々の頭の中では、東京都の戦災の跡、もしくは知っている人は広島・長崎の原爆の惨状などであったはずである。私はその瞬間、謀略放送ではないか?と気を回した。同時にまた祖国日本で、こんな呑気な歌を唱えるのだろうか?と不思議な感じすらした。
 班長は回りのロスケ達に気がひけるのか、包んで来た毛布を被って聞くようにと言った。皆は暑いのを我慢して、一斉に毛布の中に頭を突っ込んだのである。
 そのラジオは班長が我々に聞かすべく、ロスケの知人から手に入れて来たのであった。
 暑い夏の夜に祖国を偲びながら、夢中で聞き入ったひと時が忘れられない。

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# by yamamo43 | 2010-10-27 22:03 | 第三章「地方人としての暮らし」

第三章「地方人としての暮らし」~失敗した薩摩守忠度

第三章「地方人としての暮らし」~失敗した薩摩守忠度_b0069672_214511.jpg 私がインガシヤで働くようになって半年ほどが過ぎた七月頃の事である。
 その日は山にある本部の製材荷下ろしのため、T氏、N氏そして私の三名が派遣された。仕事は二時間ほどかかり、終了したのは午後三時頃だった。私たちは気持ちのいい汗を拭きながら、一服マホルカをふかしつつ、皆で帰りの方法を考えた。相談の末、結局街に出て汽車で帰る事になった。初めて見る周囲の景色を眺めながら駅に向かって山を下りて来た。二キロ位歩いて田舎の駅に着いた。驚いた事に構内に木材の山が何ヵ所もあった。ここはまさに丸太の街であった。
 この街からインガシヤまで、何キロ位あるのか、汽車の料金はいくらかかるのか?皆目分からず、我々は心配しながらしばらく木材の陰に身を隠すようにして腰を下ろし、ひと呼吸入れたのである。我々はその時一斉に『薩摩守忠度』を決め込んだのであった。
 ソ連の汽車の連結はかなり長く、機関車は二両で引いて行く。申し合わせは最後の列車の昇降口に乗る事に決めて、発車を待っていたのである。
 何分停車したのか、やがて汽笛が鳴りシベリヤ本線上り列車は静かに動きだした。我々はしゃがみながら徐々に客車の方に近づいて行った。間もなく最後の客車を見ると一斉に階段に飛び乗ったのである。我々は違反乗車の心配をしながらも、しばし涼風に生気を取り戻したのであった。五分ほどした頃、ノックがあって四〇才位の男性車掌がドアを開けて顔を出した。「ヤポンスキー、アット、クダー」<日本人、どこまで行くの?>と声を掛けて来た。私は一瞬ひやっとしたがとっさに「インガシヤ」と言った。車掌は「ダワイ、トリールーブル」<三ルーブル出しなさい>と低い声で請求した。我々はすぐ各々三ルーブル渡すと、彼はワシづかみにしてドアを閉めて消えて行ったのである。
 我々は今渡した九ルーブルは、あの車掌のポケットマネーになったのだと即座に感じたのであった。
 三〇分ほどして我々の部落に列車は停車した。我々は静止するのも待たず、一斉にホームに飛び降りたが、それを見ていたのは駅長の太ったマダムであった。マダムは我々と顔馴じみなので、よくもこの大シベリヤ本線を無賃乗車したものだ・・・と思ったのであろう、ニコニコ顔で迎えてくれたのである。
 我々はこの事実をマダムに説明しながら、夕陽の映える小さな駅のプラットホームで、腹をかかえて大笑いしたのであった。
# by yamamo43 | 2010-10-25 21:05 | 第三章「地方人としての暮らし」