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凍原の思い出~あとがき

 一九五四年(昭和二十九年)三月十七日と記憶している。
 我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。
 このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。
 そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。
 一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。

 早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。
 私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。
 これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿である高橋夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。
 ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。
 残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。


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by yamamo43 | 2010-12-08 21:57 | あとがき
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