凍原日記
2016-05-02T16:28:42+09:00
yamamo43
伯父のシベリア抑留記
Excite Blog
伯父さんの花瓶
http://yamamo43.exblog.jp/25739343/
2016-05-02T16:17:38+09:00
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2016-05-02T16:27:54+09:00
yamamo43
未分類
そういえば、
この花瓶は伯父さんがつくったもの。
シベリアに9年も抑留された時代に
器用なロシア人の工芸品を見て、
そのスキルをまねて、
日本に帰還してからは、
もっぱら趣味に活かした。
私が福井にお嫁に行くので、
好きなのを持って行きなさいと言われ、
選んで戴いてきたのが この花瓶。
なんか温かい感じのこの花瓶。
いつも伯父さんを思いだせる
距離に置いてある。
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「凍原の思い出~私のシベリア体験記」目次
http://yamamo43.exblog.jp/16200159/
2011-08-30T14:54:00+09:00
2011-08-30T14:53:55+09:00
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yamamo43
体験記
「凍原の思い出~私のシベリア体験記」 山本 剛
・はじめに
・第一章 シベリアまで
・おじいちゃんはなぜ連れていかれたのか
・シベリアまで
Ⅰ Ⅱ Ⅲ Ⅳ Ⅴ Ⅵ Ⅶ Ⅷ Ⅸ
・第二章 ラーゲル生活あれこれ
・ロスケ水兵の特技
・ハバロフスクへ向かう途中のこと
・虱、南京虫との戦い
・ラーゲルでの「バーニャ」<入浴>
・冬の砂採り
・厠での出会い
・朝鮮人学生と毒草
・ゴロビッチャ<フレップ>狩り
・生か死か、大尉の思い出
・パンと煙草
・モク拾い
・イモの皮むきアルバイト
・紙幣の切り替えとパンのこと
・ビタミンCの補給
・トンネル工事と馬
・発破と木霊
・入院とユダヤ人
・伐採での掛け声
・恨みのナイフ
・朝鮮人脱走事件
・ラーゲルの塀修理
・燕麦と馬
・夏の夜と父の死
・壁土造りと面会
・トランプ作り
・開通記念日
・エタップ<移動>
・シベリヤ鉄道
・ドイツ兵との出会い
・火事と老人
・パキスタン人と陶芸
・もう囚人ではない
・第三章 地方人としての暮らし
・釈放された夜
・私は「何処へ」行くのか
・釈放されてからの旅
・日本人との出会い
・うしろめたい気持ち
・仕事を探して
・五度めの大晦日
・苦手な坑木の積み込み
・映画鑑賞と交通事故
・野生のゴボウ採り
・初めての銭湯
・失敗した薩摩守忠度
・『リンゴの歌』が電波に乗って
・首かせの山羊
・カンスク市への集団移動
・大きな「マダム」
・土採り作業とカルメック人
・今夜はソ連兵
・秋晴れの一日
・月夜の晩の薪泥棒
・ウォッカと女性ナチャニック
・夕日のバーニャ
・吉報を次げた上級中尉
・あとがき]]>
凍原の思い出~あとがき
http://yamamo43.exblog.jp/14550772/
2010-12-08T21:57:46+09:00
2010-12-08T21:54:56+09:00
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yamamo43
あとがき
我々第七次帰還者を迎えに、日の丸の国旗を掲げた興安丸がナホトカ港を目指して静かに入港してきた。その日の海は波一つなく穏やかで、今でもあのときの情景はハッキリと瞼に焼きついている。港が眼下に見える収容所から、私は仲間と共にそれを眺めていた。今度こそ“嘘でない”ことを知った時の嬉しさ・・・・、涙が一度にどっと溢れ出た。
このときほど日本の国旗のありがたさを強く感じた事はない。
そのときソ連政府からは、ダモイする我々に対する餞別なのか?、被服と靴の交換があった。そしてそのとき食べた米の飯、その上には甘く味のついた小豆が少々乗せてあった。
一同は慌しくトラックへ追われるように乗せられて港に向かったのである。港に着くと、我々を迎えに来ていた厚生省の職員との対面があった。それが済むと無我夢中で乗船したのである。船内には日本の児童の書画がところ狭しと貼られていた。やがて昼食となり、テーブルの上には日本酒の小ビン、赤飯、鯛の尾頭つきなど・・・私には八年振りで見る懐かしい日本食であった。そのとき私は一瞬、浦島太郎のような気がしたことを覚えている。
早いものであれから三十年余年の歳月がアッという間に過ぎてしまった。
私が逮捕されたとき、生後二ヵ月を過ぎて間もなかった長男も帰国した時は八歳になっていた。その頃はまだ増毛も鰊が獲れていて、息子を連れて浜の様子を見に行ったとき、突然「おじさん」と言われて少々面食らった。それと同時に子供には申し訳ない気がした。その息子も今は四十歳半ばとなって、私が帰国したときの年齢よりはるかに上回っている。今こうして、この「シベリヤ体験記」をまとめる機会に恵まれて何故かホッとしている。
これを発刊するにあたっては、妻、息子夫婦、また娘婿である高橋夫妻の協力を得た事に対し心から感謝しなければならない。
ふり返って見ると、死ぬほど厳しかったシベリヤでの生活と記憶も、今は遥か恩讐の彼方へと遠ざかって行く。
残された余生を、私は趣味に生きひたすら孫達四人の成長を念じつつ暮らしたい。つたない、このささやかな小冊子の発刊を喜び、擱筆する次第である。
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第三章「地方人としての暮らし」~吉報を告げた上級中尉
http://yamamo43.exblog.jp/14519845/
2010-12-03T12:34:47+09:00
2010-12-03T12:32:01+09:00
2010-12-03T12:32:01+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
一九五三年(昭和二十八年)八月、私はその頃しきりに日本のお盆を追憶していたのである。八月初旬のある夕方、「スタルシレチナント」<上級中尉>が我々の住んでいる旧クラスナヤラーゲルのバラックを尋ねて来た。日本人と面接をしたいとの連絡があって、輪t氏たちは旧衛門前の看守の詰所に集合するようにと言われた。
当時ここには私とT氏、K氏、H氏の四人が住んでいた。私はその時ラーゲル監理局の職員か、警察官かと思った。我々は一人づつ面会することになった。そのとき氏名、生年月日、犯罪条項、刑期、国籍などを聞かれたのである。その時上級中尉は我々に夢のような話をしたのであった。それは、来年三月に「ダモイ」<帰国>出来るので、首実験に来たのだというのである。彼の上級中尉は我々五十歳くらいで温和な目付きの軍人だった。私はその時、とっさに“これは嘘ではない”という予感がした。彼は「今年はウラジオ近辺から帰すが、君達は来年三月である」と言って帰って行った。我々仲間は手を取り合って喜んだ。
それから間もなく、ロスケ達が新聞『プラウダ』<真実>に“日本人ダモイの要請をモスクワでスターリンと日本人の政治家が話し合っている”と我々に教えてくれた。その頃はもうすべてのロシア人達は知っていたのである。それから我々は一緒にカンスクに出てきた。元の仲間は無論、道で出会う見知らぬ日本人ともしきりに話し合うようになって、ダモイを心から喜びつつ、その日の来るのを待っていた。
ある日の事、事務所でナチャニックのイワンに出会った時、彼は「ミシヤ、お前達日本へ帰れば、またチョルマ<刑務所>に入れられるのだろう」と両手の指を二本づつ井の字に重ね右目で私の顔をのぞいて見せたのである。私は首を左右に振りながら、大きく口を開け“「ナチャーニック」<所長>「ヤポン、ノーノー」<日本は違う>”と言い返したのであった。他の二人も一緒に強く否定した。そのとき私は、やはりソ連人はそんな風に考えるのだろうか?といささか悲哀を感じたものだった。またその反面インガシヤのナチャニックと別れる時も真面目に働いてノルマを上げてくれる我々日本人を帰国させるのが辛かったのか、また残念であったのかも知れない、といろいろお互いに複雑な思いをしたのであった。
そして今思うと、ある日本の作家が<共産主義は嫌いだがロシア人は好きだ>と言ったとか・・・・・。そんなことが思い出されるのである。]]>
第三章「地方人としての暮らし」~夕日のバーニヤ
http://yamamo43.exblog.jp/14497674/
2010-11-29T21:33:36+09:00
2010-11-29T21:30:59+09:00
2010-11-29T21:30:59+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
その頃私達の現場では、街のやや中央の住宅街に建設されていたマンションの基礎工事をしていたのである。その仕事は幅一メートル深さ二メートルの穴掘り作業で、それが出来次第に次は石切山から運び込まれた岩石を一輪車に積み込みいたの上を運搬して掘り下げた溝に投げ入れるのである。あとはロスケがミキサー車からセメントを運んで固めるのであった。この仕事は真夏のせいか掘った穴の中には五十センチほど水が溜まり、上から意思を投げ入れるため泥水が飛び散って、ズボンは無論顔と裸の上半身は泥まみれになった。それでも気温がたかいので仕事が終わる頃にはズボンがガバガバに乾いたが、裸の部分と顔は痛いほど突っ張った。
私たちはウォッカ工場のそばを通って帰るのだが、門から一〇〇メートル位塀に沿って来ると、工場廃液の温水をエニセイ川の支流に流しているのである。その場所は年中、女性の洗濯場となっていて、そばでは子供達が大勢水遊びをしていた。
この温水は工場の二階から木製の桶で、二、三〇メートルほどの距離を二十五度くらいの傾斜で音を立ててながれていたのである。この桶の中に我々が足を踏ん張って縦になって寝ると、ちょうど肩幅と同じ位の幅があって、さながら温水の滝にでも打たれているような感じである。こんな気持ちのいい風呂に入ったのは七年振りのことで、しばし満足感にひたった。三人は夕日を浴びながら大声をあげてはしゃいだのである。さすがロスケ達は“きまりが悪いのか”誰も入らないので、これは我々三人の専用バーニヤであった。五〇メートルほど離れた下手で洗濯をしていたマダム達は、さぞかし「あのヤポンスキー・・・・・」と言って呆れていた事でだろう。そう思うとおかしくもあり、またずいぶん思い切った事をしたものだとも考えるのである。
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第三章「地方人としての暮らし」~ウォッカと女性ナチャニック
http://yamamo43.exblog.jp/14484788/
2010-11-27T22:14:00+09:00
2010-11-27T22:13:17+09:00
2010-11-27T22:11:48+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
我々の仕事は凍った地下の古いケーブルを引き上げる作業である。シベリヤでの冬の穴掘りはまことに重労働であった。深さは一メートル位だったがなかなか前進できないまま、三日間が過ぎた。三日間で我々の引き上げたケーブルは、わずか十メートル位のものである。五時頃になって我々は道具を一ヵ所に集め、発電所の事務所の前の玄関に腰を下ろし、寒さの中でマホルカを巻きサイレンを待ちながら休憩をしていた。
ちょうどその時、事務員らしい娘がガラス製の容器に水を入れ、片方の容器にウォッカを入れて、我々の腰掛けていた後ろに「サァー呑みなさい」と言って置いた。我々は突然のことで、びっくりして顔を見合わせた。私が訳を聞くと、ここの「ナチャニック」<所長>は女性であることが分かった。ナチャニックは我々日本人が一生懸命働いてくれた事への感謝なのか、それとも作業の最終日だったためなのか?また、格別寒さの厳しい日だったからか?とにかく彼女からのサービスであった。ところで大変気持ちは嬉しかったが、残念ながらあいにく三人共アルコールに弱かったのである。そのまま何とか言ってウォッカを返した事はまことに失礼だったと思っている。これがロスケだったら奪い合いだったろうに、と思わず苦笑した。
その時私には、見たこともないのに所長は気持ちの優しい女性なんだナーと思われた。どんな女性なのか顔も見られず、「スパシーボ」<ありがとう>の一言も言えず、夕暮れの門を出たのである。そしてこの工場には二度と入ることはなかった。
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第三章「地方人としての暮らし」~月夜の晩の薪泥棒
http://yamamo43.exblog.jp/14418144/
2010-11-16T22:23:08+09:00
2010-11-16T22:20:50+09:00
2010-11-16T22:20:50+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年(昭和二十七年)十一月、我々はカンスクに住むようになって最初の冬を迎えた。ある寒さの厳しい晩のことである。バラックの薪が残り少なくなって、朝の食事の用意に支障があってはと、三人で薪の仕入れに行くことに決まり、身支度をした。綿の入った上着の上から五メートルぐらいのロープを胴に巻き付け、「タポール」<手斧>を腰に下げた。これは我々ヤポンスキーが仕事をするときの年中通してのスタイルである。
さて目指す場所はレンガ工場の窯場である。その晩はつきのとても明るい夜であった。場所はバラックから五、六〇〇メートル離れていた。勝手の知っている我々は、私が先頭になって真っ白なはらっぱを縦列でどんどん前進した。幾棟も並ぶ乾燥小屋の周囲一帯は、広くバラ線の塀で囲まれている箇所に突きあたった。
我々は焦らずゆっくり一人ずつ潜り抜け、中へと侵入していった。三〇メートルほど進んで窯の前に到着した。窯場は乾燥場のほぼ中央にあって、丁度日本の大きな炭火窯の恰好によく似ていた。我々が着いたときは、まだ窯に火は入ってなく、焚き口近くまで薪がバラバラに置かれていた。薪の種類は三種類くらいで、一メートルほどの長さに切ってあり、これらは全部生木であった。私はおもむろに胴からロープを外した。まずU字型に置き、その上に五本並べて寝転んだ。やっとの思いで担ぎ、背中を起こしたが、仲間の二人は立ち上がるのに全力をあげてもがいている恰好がおかしかった。自分もやっとの思いで立ち上がったくせに・・・。ようやく三人そろって歩き出したが、少し行くとこんどはバラ線をくぐり抜けなければならなかった。そこでロープをゆるめ、背中の薪を雪の上にドサッと置いた。それを一本づつ塀の外へ放り出したのである。その頃は全身すっかり汗をかき、再び、担ぎ直して腰を曲げながら、三人は一列になって、フーフー言いながら雪のはらっぱを進んでいった。この蟻のような姿を見ていたのは、月だけだったのではあるまいか。いささか気がとがめた。
やっとの思いでバラックに着き、思いっきり腹を抱えて笑いあった。あの時の二人は、今頃元気でいるだろうか?私は最近この原稿を書くようになってから無性に懐かしく思い出している。]]>
第三章「地方人としての暮らし」~「秋晴れの一日」
http://yamamo43.exblog.jp/14400472/
2010-11-13T22:50:22+09:00
2010-11-13T22:48:08+09:00
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yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
一九五二年(昭和二十七年)九月、秋晴れの朝であった。私が現場の長「ナチャーニック」イワンに呼ばれて事務所に行ったのは、出勤して間もない九時頃だった。
その頃私達の仲間三人は、カンスクで一番大きなウォッカ工場の、廃液を郊外へ流すための、穴掘り作業をしていた。直径四〇センチ長さ四メートルの鋼管を連結する工事であった。
イワンは、“公園に植樹するから、あとの二人を連れて行き白樺の立木をトラックに一台運んで来い”と言った。
無論のこと運転手はロスケで、道具を積んですぐ出発となった。トラックが二十分ほど走ると、運転手は街外れに住んでいたのか、彼の家の前に車を止めて中から猟銃を持って出て来た。
トラックは私が二年前、かって南ウラルへ送られる時に中継所として足を止めた事のある、カンスクのラーゲルの側を走って行った。その時、私は懐かしさのあまり二人にその時の様子を説明した。
やがて車が大地を登りきったとき、遥に見えるカンスクの街並みそして眼下一望出来るラーゲルの四角な建物が見えた。その時はなんとも言えない複雑な思いがした。
途中の平原を走っている時に、あっちこっちの巣穴から立ち上がって、首を左右に動かしてキョロキョロと周りを見回しているリスに似た小動物がいた。運転手は車を止めて何発か発射した。彼はその時二匹射止めたのであった。車は一時間ほどして目的地に着いた。広い白樺林の前で小休止をする。運転手は煙草をくわえたまま、銃を左手に下げて辺りを見回していた。
我々はナチャニックに言われて来た通り、手首ほどの太さで三メートル位の高さの白樺を根っこから掘り起こした。汗を拭きながら、二時頃までにはトラックに一台積み込む事が出来たのである。
この運んだ白樺の木は、街の中央広場にこれから出来る公園造りに使用するもので、我々は夕方までに二十本ほどを全部移植し終えたのであった。私はこの時、門の前の左側へ五本も一列に植えた事を、今でも鮮明に記憶している。
あれから、四十年近く経ったが、あの時汗だくで植えたあの白樺の木は、どの位大きくなったろうか。何とも感慨深いものがある。
果たしてあの公園は、今はどのような姿になって市民の憩いの場になっているのだろうか。などなど、フト思う事もある。]]>
第三章「地方人としての暮らし」~今夜はソ連兵
http://yamamo43.exblog.jp/14394429/
2010-11-12T22:10:55+09:00
2010-11-12T22:08:42+09:00
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yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
工場の敷地から一〇〇メートルほど離れた所に、帰化している中国人の農家が三、四軒あった。そこは人参畑で生計を立てていたのである。
ある日、夜業の休憩時間にミキサー係のロスケが、我々三名に「パイジョン」<一緒に行こう>と言って外に出た。私は何か手伝うのかと思った。五〇メートルほど行くと、そこは人参畑であった。ロスケは我々にホフク前進せよと手まねをした。我々は“今夜はソ連兵”としてその指揮下に入ったのである。敵は本能寺にあらず、中国人の人参畑であった。その時私は再び囚人に戻る事を恐れ、いささか恐怖感を覚えたが、引くに引かれず夢中になって手当たり次第に引き抜いた。十五本位腹で押さえて、皆と一緒に引き上げたのであった。獲物は五、六本を娘達にくれてやり、皆で葉を残さず始末して、その夜、それぞれ持ち帰ったのである。
翌日も夜業であった。皆で休憩している時、中国人が一人談判にやって来たが、ロスケ達に言いまくられてすごすごと立ち去った。しばらくして皆で大笑いした。私も笑ったものの、何となく中国人に申し訳なく気がとがめた。ミキサーのロスケは“お前の家の犬も何をしていたのだ”と笑いながら喋りまっくっていた。
これは長い秋の夜業での生活劇の一コマであった。
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第三章「地方人としての暮らし」~土採り作業とカルメック人
http://yamamo43.exblog.jp/14388138/
2010-11-11T20:36:39+09:00
2010-11-11T20:34:27+09:00
2010-11-11T20:34:27+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
会社の敷地には発電所、木工場、レンガ工場と土木部門などに分かれていた。我々の指定された仕事は、レンガ工場の土採り作業である。
班長はカルメック人の五〇歳位のオッさんで、彼等の仲間五名と我々の三名、総員八名が工場から三〇〇メートルほど離れた平地にレールを敷き、トロッコに両側から純土を積み上げると、工場までロスケの「馬車追い」が運搬するのである。往復で四〇分くらいかかった。その間に小休止やら次の準備をしておく。
工場では電気係、ミキサー係のロスケと娘さん達八名で仕事を分担し、レンガの裁断係、それを運搬台に並べる者、乾燥場まで手押車で送る者、最期は棚に並べる者と手順よく働いていた。休息時間はロシア娘のオシャベリや合唱で、とても賑やかで楽しかった。
ここでは若いカルメック人が我々日本人を信用していたのか、よく愚痴を聞かされたものである。聞くところによれば、彼等はカスピ海方面の温暖な地方から、ある日突然ロスケの兵隊に追い立てられるようにして三時間以内に駅に集められ、そのままシベリヤに送られ、この町カンスクに定住したとの事であtt。土地、家そして羊も何もかも置いて来たとか、我々はそばにロシア人がいる事でもあり、心の中で同情しながら聞いたものであった。カルメック人は蒙古人によく似た顔をしていた。彼等は皆我々にとても良くしてくれたが、ロスケ達からは信用されていなかったように私には思われた。その時、つくづくソビエトは多民族国家である事に感心したものであった。
この土採り作業は二・三日もするとだんだん砂が混じるので急遽場所を移動する事になった。それが大変なことで、三〇メートルほどの長さのレールを、五〇メートルも離れた所へ動かす事は、かなりの重労働である。昼休みになると、カルメック人が中国産のお茶を我々にもごちそうしてくれた。
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第三章「地方人としての暮らし」~大きな「マダム」
http://yamamo43.exblog.jp/14340647/
2010-11-03T22:07:57+09:00
2010-11-03T22:05:58+09:00
2010-11-03T22:05:58+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
運転手はさうがに心得たもので、車を「ミリツ」<警察署>の前に止め、右手で到着した事を知らせたのである。ミリツの中には若手の警察官が一人いた。「今、署長は食事で外出しているから少し待て」と班長に言った。二〇分ほどして署長が入って来た。五名いる我々を見ていささか戸惑いながらも愛想よく会釈した。大きな身体を椅子に下ろして、若い警察官の説明を聞いていた。そしてどこかへ電話を掛けた。その相手は木材の流送をしている所であった。署長は班長を通して、そこへ行く希望者を聞いた。結局、そこへは班長とN氏の二名が行く事に決まったのである。
もう一ヵ所は建設会社であった。そこへは私と後の二名が就職した。そこで初めて班長などに別れを告げ、私達を受け入れる寮へと警察署を後にしたのであった。
寮は町の東北にあたる町外れにある。そこは昔ラーゲルの看守達の宿舎であったとか、その近くをエニセイ川が流れていた。建物は丸太造りで白壁の二階建であった。最初玄関で感じた印象は、古くなってはいたがそれはどいやな気はしなかった。
やがて中から大柄で色白な、可愛い顔をしたマダムが二歳位の赤ん坊を抱えて微笑みを浮かべて出て来た。その時我々三名の日本人は真っ黒く日焼けした顔を一斉に彼女に向けた。マダムは先頭に構えていた私の足元を見るなり、「おお!!カラシーワヤ、サポキ」<可愛らしい長靴を>と目を細くして、頓狂な奇声を上げて笑った。彼らの靴はどれもみな大きくて私の足には合うのが無く、いつも女性用の長靴を履いていたのであった。我ながら情け無いやら、おかしいやら、彼女と一緒に笑い出してしまった。
マダムは我々を階下の大部屋に通した。そこはペチカと真っ白いシーツの敷かれた寝台が三台並んでいた。我々が警察署から四キロ余りの道を歩いて来るまでに準備をしてくれたのであった。
やがて夕方になったが部屋の中はまだ点灯がなく薄暗かった。それぞれ自分の寝台に腰を下ろし、退屈しのぎに先程のマダムの話となり、彼女の亭主はどんな大男だろうか?、と勝手な事を言いながら大笑いしたのであった。
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第三章「地方人としての暮らし」~カンスク市への集団移動
http://yamamo43.exblog.jp/14321401/
2010-10-31T20:47:01+09:00
2010-10-31T20:45:05+09:00
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yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
その頃、我々の中では時々思い出しように「ダモイ」<帰国>の事が話題になった。日本の捕虜兵達は、一九四九年には祖国日本へ帰っているのである。けれども我々囚人組には、一揆オウに帰国話は何も無かった。我々もこんな田舎や山の中にいては、いざ帰国の時に取り残されてしまうのではないか、その事をいつも皆で心配していたのである。
やがて九月に入り、班長のM氏から“我々もカンスク市に集団移動をしよう”との話しが出た。それを聞き我々はこおどりして喜んだものだった。それからは我々の賃金の交渉と、班長は監督や本部の会計との折衝に回るやら、いろいろと奔走したのである。また班長は監督に袖の下を使い皆のノルマのパーセントを水増しさせた事も我々に知らせるなど・・・、彼は中々の遣り手であった。
それから数日後、我々は午後のトラックに乗って部落の景色に最後の別れを告げ、ドンドンと西方のカンスクに向かって走った。
三時間位も走ったろうか、カンスクの街は思ったより大きく、人口は五万人以上はあったらしい。ここはかって私が「ユージノウラル」<南ウラル>へ送られた時に中継所として立ち寄った所でもある。この街で私はいつ帰国出来るかも知らずに働いた。シベリヤ生活最後の街となったのである。
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第三章「地方人としての暮らし」~首かせの山羊
http://yamamo43.exblog.jp/14301537/
2010-10-28T21:02:29+09:00
2010-10-28T21:00:38+09:00
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yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
四キロメートルほどを、雑木林や原っぱを歩いた。誰か場所を見つけて“トンキョウ”な声をだした。ターニャの声である。要領の分からない我々は、サーッと一斉にそこへ集中した。やがて三時間ほども歩き廻ったせいで、私も両手で二束も採ることができたのである。誰言うことなく、「アデハイ」<休息>となり、「アベード」<昼食>となって持参の黒パンを食べ始めた。誰も時計は持っていないので“十一時頃だ”とか勝手なことを言いながら、皆で笑ったのであった。
やがて、彼女等のコーラスとなり、歌詞も分からぬ我々はただただ静かに聴きいった。夏の日も夕焼けに近い頃、三三五五と山を下り始めた。まもなく部落が見え始めた頃、私は牧柵の中で夕餌なのか、草を食む首かせの山羊を見たのである。こんな姿の山羊を祖国ではただの一度も見たことはない。珍しい情景だった。
わたしはその時、今は自由な自分に気付き、その山羊に一抹の哀れさを覚えたのであった。しかし、ソ連の人達にはあたりまえの風景なんだ、と私は自分に言いきかせたのである。
これはただ一度の、インガシヤでの忘れえぬ夕暮れの風景として、強く脳裏に描かれている。
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第三章「地方人としての暮らし」~『リンゴの歌』が電波にのって
http://yamamo43.exblog.jp/14296151/
2010-10-27T22:03:01+09:00
2010-10-27T22:01:11+09:00
2010-10-27T22:01:11+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
そんな時である。「ブルガジル」<班長>が何か毛布に包んだ箱型の物を抱えて入って来た。彼は部屋に入るなり“オイ、皆起きれ!”と声をかけた。我々は、また今夜も貨車が入るのかと思い、一斉に班長の方を注目した。枯れた抱えていた物は、小型の古めかしいソ連製のラジオ受信機だった。皆は“オッ”と声を上げて、何年振りで見るラジオをジッと見つめた。班長はつまみのダイヤルを右、左とまわした。途端に流れて来たのは、『リンゴの歌』であった。日本語の甘い歌声・・・、お互いに顔を見合わせ声を上げて、一斉に拍手して喜んだのである。
その頃の我々の頭の中では、東京都の戦災の跡、もしくは知っている人は広島・長崎の原爆の惨状などであったはずである。私はその瞬間、謀略放送ではないか?と気を回した。同時にまた祖国日本で、こんな呑気な歌を唱えるのだろうか?と不思議な感じすらした。
班長は回りのロスケ達に気がひけるのか、包んで来た毛布を被って聞くようにと言った。皆は暑いのを我慢して、一斉に毛布の中に頭を突っ込んだのである。
そのラジオは班長が我々に聞かすべく、ロスケの知人から手に入れて来たのであった。
暑い夏の夜に祖国を偲びながら、夢中で聞き入ったひと時が忘れられない。
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第三章「地方人としての暮らし」~失敗した薩摩守忠度
http://yamamo43.exblog.jp/14283472/
2010-10-25T21:05:40+09:00
2010-10-25T21:03:50+09:00
2010-10-25T21:03:50+09:00
yamamo43
第三章「地方人としての暮らし」
私がインガシヤで働くようになって半年ほどが過ぎた七月頃の事である。
その日は山にある本部の製材荷下ろしのため、T氏、N氏そして私の三名が派遣された。仕事は二時間ほどかかり、終了したのは午後三時頃だった。私たちは気持ちのいい汗を拭きながら、一服マホルカをふかしつつ、皆で帰りの方法を考えた。相談の末、結局街に出て汽車で帰る事になった。初めて見る周囲の景色を眺めながら駅に向かって山を下りて来た。二キロ位歩いて田舎の駅に着いた。驚いた事に構内に木材の山が何ヵ所もあった。ここはまさに丸太の街であった。
この街からインガシヤまで、何キロ位あるのか、汽車の料金はいくらかかるのか?皆目分からず、我々は心配しながらしばらく木材の陰に身を隠すようにして腰を下ろし、ひと呼吸入れたのである。我々はその時一斉に『薩摩守忠度』を決め込んだのであった。
ソ連の汽車の連結はかなり長く、機関車は二両で引いて行く。申し合わせは最後の列車の昇降口に乗る事に決めて、発車を待っていたのである。
何分停車したのか、やがて汽笛が鳴りシベリヤ本線上り列車は静かに動きだした。我々はしゃがみながら徐々に客車の方に近づいて行った。間もなく最後の客車を見ると一斉に階段に飛び乗ったのである。我々は違反乗車の心配をしながらも、しばし涼風に生気を取り戻したのであった。五分ほどした頃、ノックがあって四〇才位の男性車掌がドアを開けて顔を出した。「ヤポンスキー、アット、クダー」<日本人、どこまで行くの?>と声を掛けて来た。私は一瞬ひやっとしたがとっさに「インガシヤ」と言った。車掌は「ダワイ、トリールーブル」<三ルーブル出しなさい>と低い声で請求した。我々はすぐ各々三ルーブル渡すと、彼はワシづかみにしてドアを閉めて消えて行ったのである。
我々は今渡した九ルーブルは、あの車掌のポケットマネーになったのだと即座に感じたのであった。
三〇分ほどして我々の部落に列車は停車した。我々は静止するのも待たず、一斉にホームに飛び降りたが、それを見ていたのは駅長の太ったマダムであった。マダムは我々と顔馴じみなので、よくもこの大シベリヤ本線を無賃乗車したものだ・・・と思ったのであろう、ニコニコ顔で迎えてくれたのである。
我々はこの事実をマダムに説明しながら、夕陽の映える小さな駅のプラットホームで、腹をかかえて大笑いしたのであった。
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